[#表紙(表紙.jpg)] ワンナイトミステリー 「シアトルの魔神」殺人事件 吉村達也 [#改ページ]   眠れない夜に──    ワンナイト ミステリー [#改ページ]  目 次  プロローグ レインマン  1 レイク・クレセントの風  2 シアトルの魔神  3 日の沈まない街  4 心変わり  5 スタジアムの再会  6 無死満塁の悲劇  7 誰がファーストだ(Who's on first?)  8 星条旗に暴かれた真実  9 恋の裏側  セーフコ球場とレイク・クレセント・ロッジ [#改ページ]    プロローグ レインマン  バイクに乗った警視庁捜査一課のアイドル刑事——  そんな肩書きでマスコミにも注目されながら、数々の事件解決を手がけてきた烏丸ひろみが、あの『三色の悲劇』と呼ばれる殺意の連環に取り込まれて、ついには刑事退職という、まさに悲劇の結末を迎えてからもうかなりの年月が経った。  捜査一課の財津大三郎警部からは娘のように、同僚のフレデリック・ニューマン刑事からは恋心も含んだ友情で可愛《かわい》がられていた当時、ひろみはあどけない少女の面影をまだ残していた。しかし、いまはひとりの女として、新しい人生を生きている。自分と同じように、心の痛手を負った人々を癒《いや》すために。  といっても、カウンセラーではない。烏丸ひろみが新しく選んだ職業はエッセイスト。日本を、そして世界を旅しながら、人の心を癒せる文章を書いて、それを単行本や雑誌を通じて、あるいはインターネットを通じて読者に伝える仕事を選んだ。  朝比奈耕作のようにプロの書き手ではないし、氷室想介のようにカウンセリングの専門家でもない。しかし、烏丸ひろみにしか書けない文章があり、烏丸ひろみにしか語れない気持ちの表わし方があった。それが読者にも伝わって、少しずつ彼女のエッセイファンの輪を広げているところだった。  その日は、雨が降っていた。つい数日前に、取材旅行先のアメリカ西海岸最北の都市シアトルから帰ってきたひろみは、雑誌社から頼まれていたエッセイを仕上げて一息ついたところだった。エッセイには、シアトル郊外にあるオリンピック国立公園の雄大な自然をメインに、シアトル・マリナーズの本拠地セーフコ球場で大リーグ観戦を楽しんだことなども書いた。そして、脱稿後のリラックスしたひとときを、ビデオでも見ながらのんびり過ごそうと思って、雨の中を近くのレンタルビデオ店へ向かった。  店に入るときまで、ひろみは新作ビデオコーナーへまっすぐ向かうつもりでいた。ひろみは映画館へもよく行くが、話題の新作すべてをロードショーで見る時間の余裕はない。だから、見逃した新作がビデオでリリースされると、できるかぎり多くを見ようと思ってレンタルビデオ店へ行くことになる。  ところがその日に限っては、店に入ったひろみはなぜか新作コーナーへ直行せずに、『アカデミー賞受賞作品コーナー』とプレートの出ている一角へ回り込んだ。それは、新作コーナーへ行く通路とは逆のほうにあり、わざわざそちらへ方角を変えなければならない。とくにそうした理由はあとからふり返っても、ひろみには思い起こせない。足が勝手にそっちを向いたとしか言いようがなかった。  そしてひろみは、一本のビデオパッケージを棚から取り出していた。 『レインマン』——  自閉症の兄をダスティン・ホフマンが演じ、その弟をトム・クルーズが演じており、この作品で一九八八年度・第六十一回アカデミー賞主演男優賞をダスティン・ホフマンが獲《と》っている。そのビデオを、ひろみは無意識のうちに手にしていたのだ。  映画館でも見た。テレビで放映されたときも見た。それだけではない。ストーリーに感動してビデオを借りたこともある。それなのに、またいまその作品を手に取っていた。そして、新作ビデオをチェックする当初の目的をすっかり忘れ、彼女は『レインマン』だけを持って貸し出しカウンターへと進んでいった。  それは、ひとりの悪事を働いた者にとって、運命の裁きが下った瞬間といってもよかった。烏丸ひろみが、自分の意思とは無関係に一本のビデオを借りたのは、明らかに神の力がそこに働いたと考えるよりなかった。  なぜなら、のちにひろみがシアトルで起きた日本人殺人事件の真犯人を解き明かすことになる重大なヒントが、その映画のワンシーンに含まれていたからである。 [#改ページ]    1 レイク・クレセントの風  都心に洒落《しやれ》た本社ビルを構える化粧品会社に勤める永峯希美《ながみねのぞみ》は、ことしで入社六年目、二十八歳になる。自分としては宣伝か広報の仕事をやりたかったのだが、美術関係の学校を出たわけでもないのに、なぜかデザイン開発室というところに配属された。以来、一度も部署の異動はない。  彼女の会社におけるデザイン開発室は、たんにデザイナーがいる部署という概念にとどまらない。化粧品の命運はパッケージデザインとキャッチコピーにあり、と断言する社長の方針により、一般企業では「企画開発室」などと呼ばれる機能を持つ部署が、希美の勤務先ではデザイン開発室と称されている。すなわち、デザインを第一義に置いた商品開発セクションなのである。  だから、美術制作経験のない希美も、入社試験で提出した論文のセンスを認められてこのセクションに配属された。そして、いざ仕事についてみると、ここが会社の中でいちばん刺激的な場所であることがわかった。  いま、季節は六月に入ったところだったが、すでに彼女の部署では来年春の商品戦略を練っているところだった。いくつかのプロジェクトがあるうち、希美は口紅の新作を担当するLプロジェクトに組み入れられていた。Lはリップスティックの頭文字である。  その企画会議があと十分ではじまろうとしている午後〇時五十分、希美は食後のコーヒーを飲みながら、自分のデスクに配られてあった、刷り上がったばかりの自社PR誌を取り上げ、パラパラとページを繰っていた。 『かがやき』と題されたA4サイズの大判PR誌は月刊で、これを制作しているのは宣伝部である。編集デザインもデザイン開発室とは別の宣伝部所属のスタッフが担当しているため、同じ社員でも希美には内容が事前にはわからない。  今月号の誌面を見ると、夏のキャンペーンで展開する化粧品のラインアップがずらり勢《せい》揃ぞろいしていたが、顧客にとっては新作でも、希美にとっては、それらの商品開発はもう昨年の段階でひとやま越したものばかりである。自分が担当した商品のパッケージデザインが大きく掲載されているのを見ると、むしろ開発時の苦労などが思い起こされて、懐かしい気分になる。顧客が目新しさに引きつけられているころ、開発陣は同じ商品に対してノスタルジーすら感じているのだ。  昼休みでガランとしていたオフィスに、食事から帰ってきたスタッフのざわめきが増えてきた。その声につられて、希美は誌面から顔を上げ、オフィスの掛け時計を見た。そろそろ会議に必要な資料を整えて、エレベーターで三フロア上の会議室に移動しなければならない。彼女は最新号の『かがやき』を閉じる前に、もういちどパラパラッとページを弾き飛ばすようにして最後まで流し読みした。  と、そのとき、彼女の視線は雑誌の中に「希美」という文字を捉《とら》えた。自社PR誌の中に商品開発スタッフである自分の名前が出てくることは珍しくない。しかし、その場合は「永峯」という苗字《みようじ》か「永峯希美」というフルネームのどちらかで、下の「希美」だけが単独で掲載されることはまずない。しかも、彼女の視野に飛び込んできたのは、数え切れないほど多くの「希美」。そして、どこか見覚えのある風景写真も載っていた。  えっ、と思ったときには、ページが指から離れて、PR誌はパタンと閉じられていた。急いで希美は、いま自分の名前の出ていた部分を開いてみた。  そして驚きに目を見張った。  それは今月号から連載のはじまった『不思議な惑星』というタイトルの連作短編小説だった。小説といっても文字だけで読ませるのではなく、いかにも化粧品会社のPR誌らしく、美しい風景のカラー写真も大きくレイアウトされたビジュアル小説の体裁をとっていた。  希美が驚いたのは、まずその冒頭に掲げられてあった写真の場所である。小高い丘陵に挟まれるようにしてたたずむ美しい湖。そして、その湖畔に置かれた椅子《いす》。忘れもしない、シアトル郊外のオリンピック国立公園内にあるレイク・クレセントだ。そこであることに間違いはない。なぜなら『不思議な惑星』の第一回タイトルが『レイク・クレセントの風』となっていたからだ。  希美がその湖を訪れたのはいまから八年前、大学二年生のときだった。旅先には連れがいた。当時の恋人であった同じ大学の二年先輩。その名前が、なんと小説の著者として大きく掲げられていた。  野木博之《のぎひろゆき》——  知らなかった。別れた恋人が小説家になっているなんて、ぜんぜん知らなかった。しかもその彼に、自分の会社の宣伝部がPR誌への執筆を依頼しているなんて。  希美は、もしかすると同姓同名の別人かもしれないと思った。だが、小説の中にあふれんばかりに登場する「希美」という名前まで偶然の一致というのだろうか。会議の時間は迫ってきていたが、希美はその小説に目を通さずにはいられなかった——       *   *   *  不思議な惑星[#「不思議な惑星」はゴシック体]   連載第一回 レイク・クレセントの風[#「連載第一回 レイク・クレセントの風」はゴシック体] [#地付き]野木博之[#「野木博之」はゴシック体]  成田を午後の三時半すぎに発《た》った飛行機は、八時間半のフライトののち、アメリカ合衆国西海岸最北の都市、シアトルへ向けて徐々に高度を落としていた。  飛行機から見下ろす朝のシアトルは、八年前とほとんど変わりがないように見えた。もちろん街にはさまざまな変化があるのだろう。シアトル・マリナーズの本拠地であるセーフコ球場だってなかったし、ワシントン湖をはさんだ対岸にあるマイクロソフトだって、いまのような広大な敷地を占拠してはいなかったはずだ。  しかし、上空から眺める風景の中で、人間の手が加わった部分はほんのわずかしかないために、ぼくの目に映る街並みは、八年前、希美とふたりでここを訪れたときのままだった。シアトルという都市は、それほど大自然と隣接した位置にあるのだ。  到着は現地時間の六月二十六日朝八時ちょうど。八年前と同じ日付の、ほぼ同じ時刻だった。空港の中を移動するためだけにある無人の地下鉄に乗り、二駅目で降りる。預けておいたスーツケースを受け取ると、すぐにぼくはハーツレンタカーのボードを見に行った。  ハーツのゴールドメンバーだったから、いちいちカウンターで手続きを済ませなくても、空港ビル内の専用駐車場へ直行し、電光掲示板に掲げられた自分の名前を探して、そこに割り振られた番号を確認すればいい。その番号の駐車ロットを探せば、そこに予約したとおりのフォード・トーラスが、キーを付けてスタンバイされているというわけだ。あとは出口の係員に免許証を提示すれば、それで駐車場から出られる。この間、係員と口をきく必要が一切ない。  八年前、まだ大学の四年生だったぼくは、海外でレンタカーを借りるということじたいが初めてだったので、希美の前でずいぶん恥をかいた。それが昨日のように思い出された。  シアトル・タコマ国際空港。通称シータック。希美といっしょにきたときは、地図に横文字で出ている「Sea-Tac」がシアトルとタコマを略してつなげた表記とは知らず、レンタカー返却のときに迷子になった失敗もある。  だが、そんなミスをいっしょに笑ったりあわてたりした彼女は、いまはいない。隣の助手席には誰も乗っていない……。  それにしても、八年という歳月は長いだろうか、短いだろうか。ぼくにとって、希美と再会できる唯一のチャンスを待つ八年間は、気が遠くなるほど長かった。 「八年後の約束」をレイク・クレセントの湖畔で希美に持ちかけたときには、まさかこんな未来があるとは思ってもみなかった。  当時仙台にある理工系の大学の四年生だったぼくは、就職内定の記念旅行をかねて、二学年後輩の希美といっしょに、シアトル郊外にあるレイク・クレセントという、森に囲まれた静かで美しい湖で数日を過ごすことにした。その湖は、世界遺産に登録されたオリンピック国立公園の中にあった。ここは世界でも珍しい鬱蒼《うつそう》とした温帯雨林を中心に、氷河が残る山地から泳げるビーチまで、全米の国立公園の中でも屈指のバリエーションを誇る。  オリンピックという地名は五輪大会とは直接関係はない。そこにオリンパス山という二〇〇〇メートル級の山があるために、その一帯をオリンピック山地と呼び、半島の名前はオリンピック半島、そして半島の南の付け根にはオリンピアという名の人口四万の小さな都市がある。  希美と訪れたときはウルウ年、つまりオリンピックが開催される年でもあったから、レイク・クレセントの湖畔でオリンピック国立公園のことを語りあううちに、いつしか四年に一度の挑戦という話題がふたりの口にのぼった。 「四年に一度の大舞台に賭《か》ける選手たちは大変ね」  冷えたコーラを飲みながら、希美が言った。 「報われるかどうかわからない目標に向かって、四年もひたむきに頑張りつづけるなんて……私にはとてもできないわ。四年も先のところに人生の目標を置けと言われたって絶対にできない」 「じゃ、希美は目の前しか見られない、ってことなのかな」  ぼくがきき返すと、 「そうなの。私って、遠くを見た生き方ができない女だと思う」  その言い方が妙に引っかかった。翌年からぼくは郷里仙台にあるネット関連の企業に就職することが決まっていた。だが、希美はあと二年は東京の大学に残るのだ。遠くを見た生き方ができないとつぶやく彼女は、二年後に仙台でいっしょに住もうというぼくの計画に自信がなさそうだった。無理もない、希美は東京生まれの東京育ち。しかも生まれてこのかた、一度も引っ越しというものを経験したことがないという。  そんな彼女が仙台での生活に不安を感じるのも無理はないと思った。そこでぼくは、将来いっしょに暮らす決心を彼女に固めてもらいたくて、こんなことを口にした。 「じゃあ、希美に遠くを見る生き方ができるようにしてやるよ。四年後……いや、四年じゃ短いな、オリンピック二回分として、八年後の同じ日、六月二十六日という日に、このレイク・クレセントのほとりの、いまぼくらが座っているこの椅子《いす》にまたふたりで並んで腰掛けて、こうやって湖をわたってくる風を感じることにしよう。そういう未来の絵をはっきりといまのうちに決めておくんだ。どう?」  希美の耳元で風になびくほつれ毛を見つめながら、ぼくはオリンピック国立公園の名にふさわしい自分のアイデアに酔っていた。 「オリンピック二回分で八年後の約束?」 「そう、八年後のスケジュールを決めておくんだよ。オリンピックの候補選手はとりあえず四年先を見るけれど、ぼくたちは八年後まで見通しておくんだ」  四年後といえば、希美はまだ二十四だ。彼女にしたって、大学を卒業してすぐには結婚生活に入りたいとは思わないかもしれない。だが八年後の二十八なら、じゅうぶんに結婚を意識していい歳だ。とっさに思いついたわりには、そこまでの計算はぼくの中でちゃんとできていた。  一瞬、希美は戸惑った顔をした。断るのかな、とぼくは不安になった。が、すぐに希美は納得したうなずきを見せ、にっこり笑いながら返事をしてくれた。 「わかった。じゃ、八年経ったら、きっとここで会おうね」  ぼくは愚かだった。希美の笑顔に気を取られて、彼女の言葉尻《ことばじり》に深刻な別れの予告が含まれていることに気がつかなかった。  八年後にはぼくの妻となっているという前提があれば「八年後に、またいっしょにここにこよう」という言い回しになるべきで、「ここで会おう」という表現になるはずがないのだ。それは、八年後は別々に暮らしている状況を念頭においている証拠ではないか。そんな重大な含みに、ぼくはあとになって気づいた。レイク・クレセントの旅から一年後、ぼくが社会に出てまもなく、ふたりの関係が終わったとき、ぼくの記憶の底から、希美のその言い回しが蘇《よみがえ》ってきたのだ。  空港の建物から外へ出ると、八年前と同じように、外はすばらしい天気だった。雨や曇りの日が多いシアトルなのに、今回もまた青空に恵まれた。前を行く車のリアウィンドウに反射する太陽の輝きがあまりにも眩《まぶ》しすぎて、ぼくはハンドルを握りながら片手でサングラスをかけた。  空港からは、まずフリーウエイの509NORTHに乗り、99NORTHに合流してシアトル市内へ向かう。地図を見なくても、以前走った道順はしっかり頭に刻み込まれていた。サンフランシスコも顔負けの急坂だらけのシアトル市内が見えてきたところでフリーウエイを降り、フェリー乗り場のピア52を目指す。  オリンピック国立公園はシアトルの西方に位置するが、その間には複雑に入り組んだ入江が横たわっている。そのため、まずシアトルから対岸のベイン・ブリッジ・アイランドへフェリーに乗って渡らなければならない。乗船時間は約三十分。  ピア52を十時すぎに出たフェリーの、広々とした客室内には数えるほどの乗客しかおらず、ほとんどの人は外に出て太陽を浴びていた。だが風はかなり強い。そして冷たい。ぼくはサイドデッキにじかに座り込む人々の中にまじって腰を下ろすと、風で飛ばされないように注意しながら、ジーンズの尻ポケットに入れておいた財布から、一枚の写真を抜き出した。お守りとして持ってきた八年前の二人旅のときのスナップだ。いつまでも捨てることができずに持っている、湖のほとりでセルフタイマー撮影したふたりの写真。ぼくと希美の、最初で最後の海外旅行の写真——  希美への思いが断ち切れないぼくは、三十歳になるこの年まで、ずっと独身を貫いてきた。この写真とともに。その間、つきあった女性がいなかったわけではない。結婚寸前まで進行した恋も二度あった。けれども、ぼくを引き留めるものがあった。それがレイク・クレセントをバックにして撮った、この写真。これを捨てられないから、ほかの女性とは気持ちの深入りができない。  八年経ったら同じ椅子に座って、同じ風を感じようと言ったあの約束。それを反古《ほご》にされるまでは、ぼくは希美との永遠の別離を信じまいと決めたのだ。 「きっとここで会おうね」  希美は「きっと」という言葉を添えていた。彼女は決して口先だけの空約束をする人間ではない。たとえそのとき、ぼくと結婚することにはならないだろうと予感していても、八年後にはきっと「いい友だち」として会える、と思っていたかもしれない。  そう、妻でも恋人でもなく、ただのいい友だちでもかまわない。それでもいいから、ぼくは希美に会いたかった。  フェリーを下りると、305NORTHから3NORTHを走り、104WESTに入った。するとすぐに、フード海峡に架かる長くて美しい浮き橋を渡る。  ここで希美は、両側が海という素晴らしい景色に感動し、歓声を上げて、風がビュンビュン入ってくるのもかまわず窓を全開にして顔を外に突き出したのだった。その場面が、風の実感を伴ってぼくの脳裏に蘇る。希美に会いたい、という思いが強烈に募る。  そこからさらに西へ一時間半ほど走って、ポートエンジェルスという港町に出た。森と山に囲まれた国立公園がいよいよ近くなってきているはずなのに、湖と見間違えるような形で、入江の海がつねに見え隠れする。それはオリンピック国立公園の地形的バリエーションを予告する光景だった。  その町で、飛び込みで入ったベーカリーで、おいしいサーモンサンドとベジタブルスープを味わったことも思い出した。店の名前はBonny's Bakery。そんな細かいところまで覚えている自分が、ある意味でみじめでもあった。  冷静に考えれば、再会が実現すると期待するのが甘すぎるのだ。たとえ希美が八年後の六月二十六日に、という約束を覚えていたとしても、もしも本気でぼくに会うつもりがあるならば、日本にいる間に連絡をとってきたはずだ。こちらは大学卒業後の彼女の行方は知らなくても、向こうはぼくの仙台の勤め先を知っているのだから。  そうなのだ、土壇場までおたがいに会えるかどうかわからないなどというドラマティックな賭《か》けに出るはずがないじゃないか。  それに希美も、もう二十八だ。家庭を築いていて子供でも作っていれば、アメリカなどへひとりでこられるはずがない。ぼくは独身だからこそ、休みを取ってこんな行動ができるのだ。結婚して妻や子供がいれば、ぼくだって無理だ。  そんなことを考えはじめたら、レイク・クレセントへ向かって黙々と車を飛ばしている自分がバカに思えてきた。  希美と泊まったレイク・クレセント・ロッジへは、ポートエンジェルスから三十分ほどで着いた。海から十キロ足らずしか離れていないのに、もうそこは巨大な樹林に囲まれた自然の中だった。一本一本の木々がとにかく太くて、そして高い。だから太陽の向きに応じて、つねに木陰の暗い空間ができる。晴天のもとで車を走らせると、光と影の頻繁な繰り返しで目が眩《くら》みそうになった。  フロントのある本館の建物に徒歩で向かうと、入口に掲げられた星条旗が、湖を渡ってくる風になびいていた。そうだ、八年前にここへきたときに、ぼくは思った。なんてきれいな国旗だろう、って。どうしてそう感じるのか理由はまったくわからないけれど、アメリカ合衆国の国旗ほど、雄大な自然と調和するデザインをほかに知らない。  ロッジの中に入り、光が遮られて薄暗く感じるフロントでチェックインの手続きをしたとき、ぼくは、ほかに日本人の予約が入っていないかを係にたずねた。すると、日本人はひとりいて、すでにチェックインしているとの答えが返ってきた。それを聞いたとき、ぼくは心臓が高鳴り出すのを抑えられなかった。 (彼女がきている! 八年前の約束を守って!)  だが、その興奮は、フロント係のつぎの言葉で一瞬にしてしぼんでしまった。 「その日本人ゲストは、年輩の男性ですが」  名前を確かめるまでもなく、ぼくは意気消沈してフロントデスクを離れた。  ふたたびまばゆい陽光の下に出ると、湖に向かって並べられたデッキチェアのところで、白人のカップルが連れてきた大きなセントバーナード犬とじゃれあっている姿が見えた。大きな紙コップ入りのコーヒーを片手に、ふたりはほんとうに楽しそうだ。ぼくたちも八年前、あそこであんなふうにしていたのだ。ひとりぼっちで同じ場所にいるのは、あまりにもつらすぎる。  彼らから少し離れた場所に二脚並んで椅子《いす》があったので、ぼくはそのひとつに腰掛け、背もたれをリクライニングさせて目を閉じた。けっきょくここに独りで座って、虚《むな》しく八年後の六月二十六日という日が暮れてゆくのを待つだけとなるのだろう。もはやそのときのぼくは、希美が現れるという期待など完全に捨て去っていた。  やがて、長旅の疲れもあって、ぼくはいつしか眠りに陥っていた——  目が覚めたのは、寒さのせいだった。薄目を開けると、鮮やかな青空は少しだけ淡い色合いになっていて、湖の向こうの山に太陽がかかろうとしているところだった。ずいぶん長い時間寝入ってしまったようだった。セントバーナード犬をつれた白人カップルも、もういない。腕時計を見ると、午後八時十五分。サマータイムと高緯度のせいで、この時刻になってもまだ陽は沈まない。 (けっきょく彼女はこなかった)  虚しい気分に襲われ、夕食をとる元気も出ないぼくは、もう部屋へ戻ろうと思い、椅子から身を起こした。そして反射的にすぐ隣のデッキチェアに目をやった。そこに希美が眠っていたら、と、ふと思ったからそうしたのだが、そんな甘い期待が現実になるはずもなかった。  だが、たしかに人はいなかったが、ある物が椅子の上に載っていた。二つ折りにした二枚の便箋《びんせん》。それが、小石を重しにして置いてあった。隙間《すきま》から見えるのは、英語ではなく日本語だった。しかも見覚えのある筆跡。希美の筆跡なのだ!  驚きと興奮で、背筋を寒気が走った。  開けてみるより先に、ぼくは急いで周囲を見回した。だが、希美らしき人影はどこにもない。そのことを確認してから、ふたたび隣の椅子に視線を戻し、ぼくは二つ折りになった便箋をそっと広げた。  やっぱりそうだった。忘れもしない希美の筆跡だ。希美は約束を守ってくれたのだ。そしてぼくが眠っている間に、これをそっと置いていったのだ。両手が震えだし、その振動が紙に伝わった。ぼくは残照を頼りに、そこに綴《つづ》られた直筆のメッセージを目で追った。  だが、その中身は—— ≪きっと、あなたはここにくる。そう信じて、このメッセージを書いています。あなたのこと、ほんとに好きでした。だから、会社勤めをするようになってたった三カ月のうちに、どんどん変わっていってしまうあなたが恐かった。その先の変化を見つづけるのが恐かった。それで私は、あなたとの大切な恋を、純粋なままの形で、私の心の冷凍庫に保存しようと思ったのです。純愛が純愛のまま永久に変わることのないように。  あなたと別れてから、私はいくつかの恋をしました。その数と同じだけ、ひどい裏切りにも遭いました。でも、そんなとき、私の心の奥に大切にしまっておいたあなたが出てきて、私を励まし、慰めてくれたのです。  じつは、失恋よりもっと大きなショックにも出会いました。人生最大のピンチ、といってもいいような出来事……。そんなときでも、くじけてしまいそうになる私をずっと支えてくれたのは、出会ったときのままのあなたでした。ほんとうに、いつも私を助けてくれてありがとう。  私って、遠くを見た生き方ができない女だと言ったことを覚えていますか。その言葉のとおり、オリンピック二回分の未来を約束するのは、やっぱり私にはできませんした。ただ、それは自分の気持ちでそうしたんじゃありません。自分の身体が許してくれなかったんです。あなたと別れてからオリンピック一回分しか生きられないなんて、考えてもみなかった。四年後に死を宣告されるなんて……ひどすぎる。二十四でそんな残酷な事実を受《う》け容《い》れろなんて。  いま私は、病院のベッドに寝ています。東京の病院です。それでも私の目には、いつもレイク・クレセントの湖が見えています。約束の湖が。そして、いまでも毎日毎日あなたが私の心の中に出てきて励ましてくれています。がんばれ、生き抜くんだよ、希美って。だけど……もう頑張れないみたい。だから何もできなくなる前に、このメッセージだけは書いておこうと思ったんです。あなたとの約束は破りたくないから。  この手紙は、あなたの自宅へ郵便で送ってもよかったけれど、やっぱり決められた日に届けることにします。いまから四年後の六月二十六日、レイク・クレセントのほとりに並ぶデッキチェアのところへ、私の代わりにこの手紙が行きます。あなたが八年前の約束を守ってくださることを信じて、このメッセージを届けてもらうようにちゃんと頼んでおきます。  これをあなたが読んでいるころ、私は、もうこの世にはいません。でも、いまあなたが感じているのと同じように、私もあなたのそばでレイク・クレセントの風を感じています。  私は幸せです。    希美≫  頭の中は真っ白だった。読み終えても両手の震えが止まっていなかった。このメッセージを置いたのは、ぼくのほかにもうひとり泊まっている年輩の日本人男性——つまり、希美の父親に違いないと気づくまでに三十分はかかった。気づいてすぐに、ぼくは四年前に書かれた希美のメッセージをつかんだまま、名前を確かめなかった日本人宿泊客のことをたずねにフロントへ走った。  やはりそうだった。希美と同じNAGAMINEという苗字《みようじ》が登録されてあった。部屋番号をたずねると、フロント係は首を振りながら答えた。いまから一時間ほど前に、予定を変えて突然チェックアウトされました、と。遅かった。だが、もう希美の父親を追いかける意味はなかった。なぜなら、姿かたちは見えなくても、いまぼくのそばには最愛の希美がたしかにきてくれているのだから。  ぼくは建物のドアを開けて外に出た。いつのまにこんなに時が流れたのか、無数の星が湖面を照らしていた。その星明かりに輝くレイク・クレセントを眺めながら、ぼくはデッキチェアに向かってゆっくりと歩みはじめた。大好きな希美といっしょに、深い深い森の向こうから吹いてくる風を感じるために。       *   *   *  頭が真っ白になっているのは、希美のほうだった。両手の震えが止まらないのは希美のほうだった。そこに書かれているのは、間違いなく野木博之との間にあった出来事だった。いまから八年前の六月、当時大学二年生だった希美は恋人の野木に誘われて、ふたりきりの海外旅行へ出た。成田から飛び立った飛行機の着陸地はシアトル。この小説に書かれたように、野木は慣れぬ海外でのレンタカー手続きに手間取った。ようやく借りた車で、ふたりはシアトル郊外にあるオリンピック国立公園へ向かった。フェリーを使って、ここに書かれたとおりのルートで。  オリンピック国立公園を旅先に選んだのは、珍しい温帯雨林が見られるからというよりも、ガイドブックで見たレイク・クレセントの姿に希美が惹《ひ》かれたからだった。そして、たしかに野木は湖畔で八年後にもう一度同じ場所を訪れようという約束を求めてきた。その問いかけに、一瞬ためらったのも事実である。  なんと観察力の鋭い人なのか、希美の心の動きまでが読みとられていた。あのとき、八年後の約束を持ちかけられて希美が感じたのは「束縛」の二文字だった。野木のことは愛していた。誰かほかに好きな人がいたわけではない。しかし、希美が楽しんでいたのは、恋であり愛であって、結婚という形への疾走ではなかった。だから「再会」という形での八年後の対面のほうが先に頭に浮かんだ。そして「きっと会おうね」という言葉となって口に出たのだ。「またこようね」ではなく。  ただ、こうやって文章で書かれるまで、希美はそういうセリフを口にしたことすら忘れていた。小説の中の「希美」と違って、その約束は八年の間に完全に記憶の底に埋もれてしまっていた。  いまは六月の初め。気がついてみれば、約束の再会の日はことしの今月であり、それがおよそ三週間後に迫っている。そして、この小説—— 「永峯」  遠くから呼びかけてくる男の声がする。 「おい、希美」  こんどは下の名前に変えて呼んでくる。聞き慣れた声。それが誰かはわかっている。同じデザイン開発室のスタッフ。同期入社の軽部勉《かるべつとむ》。いまの希美の恋人。 「何やってんだ、会議遅れるぞ」  ようやくその声のほうに目を向けた。いかにもラグビーをやっていましたという広い肩幅と厚い胸板でスーツがはち切れそうになっている軽部が、資料を小脇《こわき》に抱えて廊下へ出るドアのところに立っていた。 「あ……」 「あ、じゃねえよ。会議に遅れるぞ、って言ってんの」 「うん、遅れる」 「なに?」 「永峯希美、遅れます。室長にそう言っといて」  あっけにとられる軽部をよそに、希美はデスクの上の電話機を手元に引き寄せ、内線番号をプッシュした。宣伝部にいる大貫理奈《おおぬきりな》。一年後輩で、PR誌『かがやき』の編集を担当している。 「ねえ、理奈」  走ってもいないのに、希美はあえいでいた。 「ききたいことがあるの。いまからそっち行くから、待ってて」 [#改ページ]    2 シアトルの魔神 「それで、ここで希美のカレシは手間取ったわけだ、いまのぼくみたいに」  英語はかなり達者だが、アメリカで自分でレンタカーを借りるのは初めてという軽部勉は、ハーツレンタカーのカウンターでだいぶ戸惑った末に、書類を片手に、待っていた希美たちのところへ戻ってきた。  そのときに発した言葉の中に、過去の恋人に対する現在の恋人の嫉妬《しつと》のようなものが混じっていることを、希美は敏感に感じ取った。  ツンツンと、軽部に見えないところで希美の背中をつついたのは宣伝部の大貫理奈。今回のシアトル行きに彼女もついてきた。その指先のサインは「軽部さん、けっこうムカついてるみたいですよ」と言っていた。  そのとおりだと思った希美は、横に並んでいる理奈に軽くうなずいた。つきあっている女の、昔の男との軌跡を追いかけるような旅は面白くないに決まっている。ただし軽部の目には、いまの希美のうなずきは自分に向けられたものと見えたはずである。 「こっちのブロックにぼくたちの車があるらしい。行こう」  Sea-Tac——シアトル・タコマ国際空港の駐車場専用ビルの薄暗い通路を、軽部は先頭に立って、カウンターでの不手際を取り返すかのように早足で歩きはじめた。  彼が肩に提げているのは、大型のスポーツバッグ一個。希美と理奈もブランドものの旅行バッグだけで、スーツケースを転がしていくような大げさな旅支度はしていない。三人とも仕事でもプライベートでも海外によく出ていたから、旅慣れたものだった。  彼らは土日を含んだ六日間の休暇をとって、アメリカ西海岸最北の都市、シアトルへ飛んできた。たまたまデザイン開発室のスタッフの仕事が一段落し、これまで休日も返上で働いてきたぶん、交替で休暇をとってよしという上司の指示があったのと、宣伝部の大貫理奈も有給休暇の未消化分が溜《た》まっていたので、夏休み前でチケットの安い時期を狙《ねら》ってシアトル行きの便を手配したのだった。  旅行の目的は、表向きには大リーグ観戦ということになっていた。シアトル・マリナーズ対アナハイム・エンゼルスのチケットも、ネット裏のいい席がとれていた。お目当ての日本人大リーガー佐々木と長谷川が投げ合うかどうかは、ふたりともリリーフピッチャーなので、試合の展開|如何《いかん》でどうなるかわからない。だが、そのカードのチケットを手に入れたと聞かされた会社の仲間たちは大いにうらやましがった。三人の渡米に隠された真の目的を知らないで……。  また、希美と軽部のふたりが結婚を前提とした恋人どうしであることは社内公認の事実だったから、そのふたりの大リーグ観戦旅行に大貫理奈も同行すると聞いた周囲は、理奈に「おまえも気が利かないやつだなあ」とか「どうせアテられるだけだぞ」などとからかったものだった。  だが、真相は違う。もっと深刻な旅の目的が彼らにはあった。 「じゃ、希美、助手席に乗れよ」  割り当てられたレンタカーのトランクに三人の荷物をしまうと、軽部は運転席のドアを開けてさっさと車に乗り込んだ。いつもならば希美のために助手席側のドアを先に開けてやるぐらいの気遣いはする彼だったが、きょうはそこまで気が回らない様子だった。それとも怒っているのをアピールしようとしているのか。希美には、そのどちらとも受け取れた。とにかく、軽部が不機嫌であることだけは事実だった。そして、理奈がひとりで後部座席に乗った。  軽部がゆっくりと車をスタートさせ、ゲートでレンタカーの書類を係員に見せると、薄暗い駐車場ビルを抜け出して、まばゆいばかりの陽光が輝く青空の下に出た。 「なるほどね」  そのまぶしさに目を細めて、軽部は言った。 「小説に書いてあるとおりだな」  そして彼はサングラスをかけた。  助手席の希美は、重いため息をついた。そして自分もサングラスをかけた。軽部の一言ひとことが胸に突き刺さってくる。  シアトルという都市は雨が多い。しかし、いったん晴れ上がると東京などでは想像もできないような鮮やかな光が天から降ってくる。そのまぶしさの記憶は、八年の間、希美の脳の奥底でキラキラと静かに輝きながら決して消えることがなかった。そしていま、彼女はふたたびその強烈な直射日光を肌に浴びることとなった。後部座席の理奈だけがサングラスを持っておらず、仕方なく額の上に手をかざして、光の跳ね返る路面を見つめていた。 「ナビゲーターは頼んだぞ」  軽部は、レンタカーのオフィスで手渡された地図を希美に渡して言った。 「一度きたことがある場所なら、案内できるよな」 「そんな……」  軽部の言い方があまりにも皮肉っぽいので、さすがに希美はムッとして言い返した。 「私が運転していたわけじゃないから、道なんて覚えていないわ」 「でも、彼のために地図を見てやったんだろ」 「それはそうだけど」 「だったら覚えていそうなものじゃないか。ぼくは初めてなんだから」 「わかったわ」  また希美はため息をつき、そしてシアトルの地図を膝《ひざ》の上で広げた。後部座席で、後輩の理奈はいったい私たちのやりとりをどんな思いで聞いているのだろうと、恥ずかしい気持ちになった。  しかし、いざ車が走り出してみると、希美は考えていた以上に自分が道を覚えていることに自分で驚いた。とりあえず地図は参考にしているものの、出てくる標識すべてに馴染《なじ》みがあるような気がした。だから分岐でのレーンチェンジの指示なども、まさにナビゲーターと呼ぶにふさわしい的確さで軽部に伝えることができた。  509NORTHから99NORTHへ、そしてシアトル市内へ入れば、どのようにフリーウエイを降りたらフェリー乗り場へ向かうのかも、もう地図がなくてもガイドできる自信があった。  ただし、きょうはフェリー乗り場へは立ち寄らない。そこから船に乗って対岸に渡ってしまえば、想い出の湖、レイク・クレセントへ行かざるをえなくなってしまう。だが、そこまで希美は過去の恋を追いかける気はなかったし、軽部にしたところで、希美が昔の恋人とベッドをともにした湖畔のロッジなどに泊まる気はないはずだった。  予定では、きょうはこのままシアトルのホテルへ入る。まだ時刻は昼前だが、日本との十六時間の時差を調整するために、うまく睡眠をとりながら身体を休ませる必要があった。翌日の行動は何も決めていない。そして翌々日、三人は地元シアトルを本拠地とする大リーグ、シアトル・マリナーズの試合が行なわれるセーフコ球場へ行く段取りになっていた。  試合を観るためではない。そこでかつての恋人、野木博之と会うことになっているのだ。いや、希美の立場からすれば「会うことになってしまった」と言ったほうが正確だった。決して望んでいた展開ではないのに、いまの恋人、軽部勉が事態に激怒して強引にそういう手はずを整えてしまったのだ。  フリーウエイの流れに乗って速まる景色を見つめながら、希美はあの日の会社での出来事を思い返していた。       *   *   * 「じゃあ、この連載は理奈が企画して、宣伝部の会議を通したのね」 「はい」 「あなたが作家の人選をしたのね」 「そうですけど」  自社PR誌『かがやき』の最新号を持って宣伝部に駆け込んだ永峯希美は、後輩の大貫理奈がきょとんとした顔で答えるのを見て、一瞬拍子抜けがした。ひとりで興奮している自分がバカみたいかもしれない、という思いがよぎった。  だが、ふつうではありえないことが起きているのだ、と自分に言い聞かせて、また言葉に勢いを持たせたままたずねた。 「どうして彼にしたの」 「どうして、って?」  と、理奈は小首をかしげた。  この子ってリスみたい——いらつきながらも、希美は頭の片隅でそんなことを考えていた。歳は自分よりも一つしか下ではないから、もう二十七歳のはずだ。それなのに、理奈は見た目もしぐさも女子高生みたいな幼さがある。実際、理奈が歳を打ち明けると、初対面の人間はたいていひっくり返らんばかりに驚く。そもそも社会人ということすら信じられない顔立ちだからだ。  他人にそう思わせる原因はどこにあるかといえば、まずクリッとした大きな目。もちろん二重。それでいてタレ目なのである。愛嬌《あいきよう》があるとか、愛くるしいと表現するのを通り越した目尻《めじり》のタレ方。でも、瞳《ひとみ》は大きい。鼻はちょこんと丸っこくて、上の唇がダダをこねる子供のようにとがっている。身長も百五十五センチだから、いまの女の子としては小柄なほうである。で、子リスを思わせるように、ちょっとだけ大きめな前歯が覗《のぞ》いていた。  声の質も理奈の幼さを増幅させる要因になっていた。名前がリナじゃなくてリカだったらぴったりなのにとみんなが言うのも無理もない、甘ったるいトーンとしゃべり口は、とてもあと三年で三十の大台に乗るとは思えなかった。さらに、男性社員の下ネタにきょとんとする、演技か本心かわからないウブなリアクション。それらすべてが、理奈を実年齢よりも十近く幼く見せていた。「若く」ではなく「幼く」というところに、大貫理奈のイメージの特徴があった。  短大を出てこの会社に入った理奈は、五年ほど経理部に配属されていた。ふつう経理に行かされた女性社員は、退職までずっとその部署にいるのが社内人事の慣習だったが、二年前の人事異動で理奈は宣伝部に移された。経理から宣伝は異例のコースである。そうした人事が行なわれたのも、彼女の天然ボケのようなキャラクターが経理向きではないからだと周囲は解釈していた。  ともあれ、浮世離れした女子高生タイプの子リスちゃんは、あんがい男性社員には人気があった。しかし、仕事のやり方もしゃべり方もすべてがテキパキしたリズムで生きている希美にしてみると、この手の女の子は苦手だった。 「ねえ、どうして理奈はこの人を起用したの。野木博之っていう人を」  相手のトロい反応にいらだちながら、希美は過去の恋人の名前を久しぶりに口にした。けれども実際にフルネームで呼び捨てにしてみると、ずいぶん奇妙な感じがした。作家の名前を呼び捨てにするのはごく自然なことだが、それが自分のかつての恋人となると違和感があった。 「どうして、ってえ……」  また同じ返事しかしないので、希美はいちだんとトゲトゲしい口調になった。 「この人、ほんとに作家なの? 野木博之——ぜんぜん有名じゃないじゃない。聞いたことないわ、私」 「たぶん、そうだと思います。あたしも知りませんでしたから」 「なに、それ」  どこまでもピントのはずれた答えに、希美は切れそうになった。 「『かがやき』はお客様に対するウチの顔みたいな雑誌でしょう。その連載小説に、どうして誰も知らない無名の新人を起用するのよ。ヘンじゃない」 「でも、カッコいいですから」 「え?」 「ほら、いままで『かがやき』が原稿をお願いしてきた作家って、まず最初に見た目でしょ。女の作家はもちろんファッションセンスのいい人、そして男の作家もダンディな人を選ぶって基準があるじゃないですかあ」 「それはそうだけど」 「それで私、編集会議のときにイチオシで押しまくったんですよー、野木さんを。まだ三十歳になったばかりの若さで、しかもすっごくハンサムで、タレントみたい。だから、これから赤丸急上昇になる作家なのは間違いありません、ウチが先物買いしましょうってアピールしたんです。化粧品会社のPR誌に載る作家というのは、はっきり言っちゃえばお顔が大事じゃないですかあ」 「そんなに……すてきな人なの?」  たずねながら、希美は胸がキリッと痛んだ。  いちいち理奈にたずねるまでもないことだった。素敵な男だった、野木博之は。  いっしょにベッドで抱き合って眠り、先に目覚めたとき、まだ寝息を立てている彼の顔を朝の光のもとで眺めるたびに思った。なんてきれいな人なんだろう、と。  男の顔を見てきれいだと思える。そしてその男と、夜から朝までずっと肌を寄せ合っていられる。その幸せを希美はいつも噛《か》みしめていた。だから、野木といっしょにベッドに入るときは、彼よりも遅く眠りについて、彼よりも早く起きるのが習慣だった。美しい寝顔を飽きることなくいつまでも眺めていたかったから。  ただ、男は顔だけではない。女が顔だけでないのと同じように、男も顔がいいというだけでは長い期間をパートナーとしていっしょに暮らすには不安がある。彼の描いた小説の中では、さすがに「希美」のその心境までは描かれていなかったが、八年後に同じ場所に立とうと求められたとき、それを「プロポーズ」とは受け止めず「友だちとしての再会」にすり替えたのも、野木と交際をつづけているうちに、その不安を徐々に強く感じはじめていたからだった。  どこかおかしい——  野木博之の性格をそう感じはじめたのは、ふたりでオリンピック国立公園へと旅に出る三カ月ほど前の三月なかば、春というには冷たすぎる雨が降りしきる日のことだった。まだ大学一年生だった希美は、映画と夕食のデートを終えて、野木の車で自宅マンションまで送られてきた。アスファルトの路面のそこかしこで、ピチピチと音を立てて雨粒が弾き返されており、点《つ》けっぱなしのヘッドライトに照らされて、銀色のダンスをつづけていた。  そんな強い降りの中、野木が差しかけてくれた傘の下にもぐり込んで建物の入口まで小走りに駆け込もうとしたとき、街灯の下に置かれた小さな段ボール箱が目に入った。そして、その中から哀しげな動物の鳴き声が洩《も》れてくるのに希美は気がついた。雨音にかき消されてしまいそうな、クーンクーンとか細い鳴き声だった。 「なんだろう、あれ」  当然、捨て犬が入っていることを想像して希美が問いかけると、野木は差している傘をひょいと持ち上げるようにして肩をすくめると、感心がなさそうに答えた。 「べつに、なんでもないんじゃない?」  野木はごく自然な答え方をしたが、希美にとっては驚くようなリアクションだった。 「なんでもないワケないじゃない」  彼の傘の下を飛び出すと、希美は電柱のところへ駆け寄った。 「おい、濡《ぬ》れるぞ」  そう言いながら野木が追いかけてきて、電柱のところでしゃがみこんだ希美の上に、傘を差しかけた。  長時間雨に打たれていまにも形が崩れそうになっている段ボール箱を開けてみると、生まれてまもない一匹の子犬が、小刻みに身体を震わせながらもぞもぞ這《は》い回っている姿が目に飛び込んだ。 「やだ、なんでこんな日に捨てるのよ、かわいそう」  希美は急いで子犬を抱き上げた。種類はわからない。おそらく雑種だろう。茶色っぽい毛並みの、耳が垂れた子犬だった。茶色く見えるのは、本来の毛色だけでなく、泥の汚れもまじっているためだった。子犬は、寒さと不安で全身を震わせながら、希美にしがみつこうとして足を宙でバタバタさせた。後ろ脚が左右交互に希美の着ていたジーンズ生地のジャケットを引《ひ》っ掻《か》いた。 「あ、バカ!」  叫んだのは、希美ではなく野木だった。 「汚れるじゃないか」  そう言うなり、彼は片手で子犬を希美の手から奪い取った。 「なにするのよ」 「希美の服が汚れる」 「服って、これジーンズよ」 「でも汚れる」 「汚れたら洗えばいいのよ」「おれがあげたんだ」  希美の言葉にかぶせるように、野木が言った。 「おれが希美の誕生日にプレゼントしたジャケットなんだ。粗末にしないでほしい」 「………」 「とにかく、いつまでもこんなところに立っていないで、部屋にあがろう」 「その子は」 「おれがちゃんとするよ」 「ちゃんとするよ、って?」 「心配するな。捨て犬をまた捨てるようなことはしない」  野木は、自分の胸元にくっつかないように距離を置いて右腕の中に抱え込んだ子犬に目をやった。 「じゃ、どうするの」 「警察に届ける」  直感的にウソだ、と思った。希美の住むマンションからいちばん近い交番まででもだいぶ距離がある。第一、交番の場所など野木は知らないはずである。仮に教えたとしても、この土砂降りの中を歩いては行かないだろう。かといって、野木が大切な愛車に捨て犬を乗せるとも思えなかった。なにしろ後部座席には、床にムートンが敷いてある。座席にではなく、床に、である。だから後ろに乗る人間は、靴を脱いで車に乗り込むことになる。  そんなふうにしてまで後ろに人を乗せることはないよ、ここは自分用のくつろぎスペースだから、と野木は言うが、車をそのように大切に扱う人間が、濡れて泥にまみれた子犬を乗せるわけがなかった。 「その子犬を返して。ついでに傘も貸して。ヒロはもう帰って」 「え?」 「私が自分で交番へ届けるから」 「いいよ、おれがやるよ」「ううん、私がやる」  こんどは希美のほうが野木の言葉に自分の言葉をかぶせる番だった。  けっきょくあの夜は、デートの楽しさが消されてしまうような気まずい雰囲気で別れた。学生のころから、自分でこうだと決めたら実行せずにはいられないタチの希美は、口に出したとおり、野木を帰して、子犬を抱いて交番まで届けに行ったのだった。  二、三日もすると、そんなエピソードはなかったかのように、ふたりはまた楽しい時間をいっしょに過ごした。だが、野木に抱かれても、目覚めのときに野木の美しい顔を間近に見ても、なぜか子犬の鳴き声が希美の頭の奥底に聞こえるようになった。  それは、神さまが子犬という使者をよこして希美に知らせようとした警告に思えてならなかった。そのか細い、すがるような鳴き声は、湖面をわたってくる風を頬《ほお》に感じながらレイク・クレセントのほとりに立ったときにも、希美の耳に聞こえてきた。  同時に、八年後の約束を結ぼうとする野木の言葉に、強烈な束縛の匂《にお》いを感じた。この人に、これからの人生をすべて束縛されてしまっていいのだろうか——そんな警戒心が浮かんだ。  だから野木の申し出に対して一瞬返事につまり、そして事実上のプロポーズに、事実上のノーを返す形の、きわめて儀礼的な再会の約束をしてしまったのだ。  その野木と、まさかこんな形で再会するとは、希美は夢にも思わなかった。いまの恋人、同期の軽部勉との結婚が来年早々に内定しているというこの時期に……。 「ねえ、永峯さん」  大貫理奈の甘ったるい声で、希美はハッと我に返った。 「え、なに?」 「ですからあ、これのいちばん後ろを見なかったんですか」  宣伝部の机のいたるところに置いてあるPR誌『かがやき』を一冊取り上げると、理奈は最後のページを広げて希美に示した。 「ほら、これ見てくださいよー。カッコいいでしょ、野木博之って人」  希美は目を見張った。『かがやき』の最終ページに、八年前に……正確には、レイク・クレセントの旅から帰った翌年、いまから七年前の春に別れた懐かしい恋人の顔が「著者近影」として掲載されていた。さっきは小説のことばかりに気を取られて、最後のページにそんな写真が載っていることまで気づかなかった。  変わっていなかった。それどころか、男の色気のようなものは、ますますそのオーラを増しているように思われた。  そして希美の視線は、誌面に印刷された著者のプロフィールに向けられた。  野木博之《のぎ・ひろゆき》仙台市出身  大学を卒業後、仙台市のIT企業に勤めたのち友人とともに渡米、アメリカ合衆国のシアトル市で「JPコミュニケーター社」設立。在米日本人のための生活コミュニティサイトをWEB上で運営。同時にエッセイスト、作家の肩書きも持つ。  まるで女性の作家のように年齢が伏せられていた。  希美は、彼がシアトルに移り住んでしまったことなどまったく知らなかった。承知しているのは、地元仙台でIT企業に勤めたところまでだった。それ以降は、自分から避けるようにして野木の消息を知るまいとしてきたから、情報の入りようがなかった。  それにしても、よりによってシアトルとは——  彼の小説に書かれてあったように、希美との想い出が忘れられずにその街を選んだのだろうか。それとも、天下のマイクロソフト社が近くに本拠地を構えているから、仕事の場をシアトルにしたのだろうか。  希美は後者であることを、または第三の理由であることを願った。レイク・クレセントの約束を果たすために移住していたのだとしたら、それはロマンチックというのを通り越して、薄ら寒いものがある。  しかし、まさにその「約束の日」が今月の下旬に迫っていることに希美は気がついた。ぞくり、と背筋が寒くなった。野木の執念のようなものに導かれ、約束の日にレイク・クレセントに立っている自分の姿が脳裏をよぎった。 (彼はまだ独身なんだろうか)  問題はそこだった。  小説の「ぼく」は、希美が忘れられずに独身を守り通している。では、現実の野木博之はどうなのか。  男の三十ならば、そして思い切ってアメリカに仕事の拠点を移したというならば、まだ家庭を持っていない可能性は高い。とすれば、もしも再会してしまったら、それは彼のロマンの炎を再燃させる恐れがある。  希美も再会を望んでいるなら、その展開はまさに恋愛小説のクライマックス並みの感動シーンとなるだろう。だが、彼女はすでに軽部勉との結婚を決めているのだ。結婚してもこの会社で働きつづけるつもりだったから、時期はそれほど急いでいなかったが、それでも来年の春までにはいっしょになろうね、とおたがいに話し合っていた。  先方の両親と自分の両親もすでに顔合わせを済ませている。気むずかしい希美の父も意外に軽部をすんなり気に入ってくれたし、向こうの両親もほんとうにいい人で、希美を可愛《かわい》がってくれそうだった。会社の人間が思っているよりも速いスピードで、結婚への足固めは進んでいるのだ。そんな時期に野木が出てきたら—— 「ねえ、理奈」  つとめて動揺を顔に表わすまいとしながら、希美はきいた。 「あなたがこの人のビジュアルに惚《ほ》れて、ウチのPR誌に登場させようとしたのはわかるわ。ただし、それはエッセイや小説で実績があれば、の話よ。私はけっこう本は読むほうだけど、ぜんぜん知らないもの、野木博之なんて」 「部長にも同じこと言われましたあ」  のんびりした語尾の伸ばし方で、理奈は答えた。 「でも、実際に彼が書いたものを見せたら、最後はこう言って納得してくれたんですよ。なるほど、若い女性が好きそうな短編ではあるし、ぜんたいのタッチも悪くない。まあ、『かがやき』は小説雑誌じゃないんだから、文壇で実績のない作家でも、ウチのユーザーの好感度が高そうならかまわないかな、って」 「ちょっと待って」  希美が聞き咎《とが》めた。 「じゃ、理奈が会議にかけたときには、もうこの小説ができていたの」 「そうですよ。それから写真も」 「レイク・クレセントの写真も?」 「はい。あと、野木博之本人の写真もね。いくらなんでも、そういったものが揃《そろ》っていなきゃ、あたしだって会議を通しにくいですよお」 「そしたらこれって……持ち込み企画?」 「ええ」 「誰が持ち込んだの」 「本人ですよ」 「ヒロが! ウチにきたの!」 「ひろ?」  またしても、きょとんと首をかしげて、理奈がきき返した。 「ヒロって、永峯先輩、野木博之を知っているんですか」 「あ……」  希美は自分の失言に赤くなった。 「あー、もしかして」  理奈は、いまごろになって気づいた顔になった。 「この小説に出てくる『希美』って、永峯先輩のことなんスかあ」 「………」 「わー、マジですか、それ」  理奈は急にウキウキした顔になった。 「希美っていう名前、ありそうで、ないじゃないですかあ。だから最初に原稿読んだときも、ウチの希美さんを思い出したんですよ。でも、まっさかーとか思っちゃってえ」 「で、彼はいつきたの」  頬《ほお》の火照《ほて》りを隠しきれないまま、希美は硬い声できいた。 「ねえ、野木博之はいつウチの社にきたのよ」 「はっきり覚えていないけど、三月のなかばぐらいですよ」 「理奈をたずねて?」 「ンなわけないじゃないですかあ。あたし、ぜんぜん知らないんですから。そうじゃなくて、『かがやき』を編集している係の人いますか、って、いきなりウチの受付にたずねてきたんですよ。でも、作家の野木博之ですといって名刺まで出したから、受付の女の子も、あたしにつないだんですけど。……あ、そうそう、名刺からしてオシャレだったですよ。ぜんぶ横文字なの。英語。ワシントン州シアトルとか住所に入っちゃって。でも、もちろんカッコよかったのは名刺よりも本人。はっきり言って、あたし一目惚れしちゃったのかな、な〜んて。だから会議でも一生懸命プッシュしたんですけどね」  妙にはしゃいでいる理奈を脇《わき》に、希美は顔は赤くしたまま、心では青ざめていた。  野木は、希美がこの会社に勤めていることをどこかで突き止めたのだ。それで、レイク・クレセントの想い出を綴《つづ》った短編小説を書き上げ、日本にやってきた。  寒気がした。 「それでえ」  好奇心丸出しになったときの理奈の声ほど耳障りなものはない、と思いながら、希美はその後輩の質問を聞いていた。 「ここに書いてあることって、ぜんぶ実話なんですかあ」  実話、という言葉が妙に生々しかった。 「ウソよ、って否定しても、どうせ理奈は信じないんでしょ」 「わー、じゃ、やっぱりホントなんだ。ウチの希美さんがモデルになってるんだ」 「そんなワケないじゃない!」  いったんは正直に認めようとしたが、希美は思い直して突っぱねた。 「ちゃんと私は病気にもならずに生きているわ。四年前に死んだりせずにね」 「でも、それ以外は当たっているんですか」 「………」 「永峯せんぱあい」  理奈は、クルミでも持たせたらさぞ似合いと思われる前歯をチロッと見せながら、子リスのように首を右に左にかしげて、しつこく食い下がった。 「ちょっとヤバくないですかあ、この展開。だって軽部さんとの結婚も迫っているんでしょう」 「理奈」  幸いにもほかの宣伝部員は時間差の昼食に出てみな出払っていたが、それでも希美は大きな声でしゃべる理奈にガマンができなくなっていた。 「よけないこと言いふらしたら承知しないわよ」 「やっぱ、マジだったんですね」 「あなたも二十七なんだから、二十七らしい言葉遣いをしたら?」 「きゃはは〜、怒られちゃったー、理奈ちゃんたら」 「………」 「だいじょうぶですよお、そんな恐い顔しなくたって。大貫理奈、こうみえても口は堅いですから」  とうてい信用できそうもない約束を、理奈は軽い口調で言い放った。 「でも希美さん、これからどうするんですか」 「どうするって、なによ」 「野木さんみたいなカッコいい人の、一途《いちず》な愛を無視しちゃっていいんですか。この小説って、希美さんへのメッセージですよ。ぼくはきみを忘れていないんだ、って」 「考えすぎよ」 「そうやってムキになって否定しなくてもいいじゃないですかあ。こんなハンサムな男の人に愛されるなんて、うらやましいです、あたし」 「あなたみたいに、見た目で男を選ぶ時代はとっくに卒業したの」 「あー、そんなこと言ったら、軽部さんがまるで見た目に大したことないみたい。軽部先輩もカッコいいですよお。あたし、好みだなあ、軽部さんも」  そして理奈は、二重のタレ目をもっと下げて、うふっと笑った。 「けっきょく永峯先輩って、面食いってことなんですね。さすが化粧品メーカーの若き女性エリート」 「とにかく理奈、よけいな噂《うわさ》を広めたら、タダじゃおかないからね」 「わかりましたけどー」 「けど、なによ」 「心配なんですう、理奈」  こんどは理奈は、目尻《めじり》だけでなく眉毛《まゆげ》も下げて言った。 「野木さんてね、まだ独身なんですって。もしかして結婚しない理由も、この小説に書かれてあるとおりなんじゃないんですかあ」  希美の背中にひんやりしたものが這《は》い上がってきた。       *   *   *  大貫理奈の口が堅いという自己評価は、半分は当たっていたが、やはり半分は信用できないものだった。  たしかに彼女は、自社PR誌で新しく連載のはじまった小説第一弾が、ほかでもないデザイン開発室の永峯希美をモデルにしたものである事実を、他の社員などに口外はしなかった。その点では、彼女は約束を守った。  だが、唯一の例外を作った。理奈は、軽部には話してしまったのだ。  それは、希美の心が揺れるのを軽部にストップしてもらいたかったからだと理奈は説明した。親切心から出たおせっかいなんですよ、と。嘘《うそ》に決まっていた。理奈は、社内公認の仲であるふたりの間に波風を立たせたかったのだ。百歩譲って、本気で理奈が心配していたとしても、それは軽部の感情を損ねるだけの結果になることぐらい、わかっているはずだった。  軽部勉という男には、いいところがいっぱいある。とくに彼は、小さな子供や動物にやさしかった。動物たちが出てくるアニメ映画で涙を流してしまうような純粋なところもあった。捨て犬に対して冷たい態度をとった野木とは、そこが決定的に違っていた。だからこそ希美は軽部という人間を信頼したし、心から愛せたし、野木のときに感じたような、人生のパートナーとすることへのためらいは一切なかった。そして結婚を決めたのだ。  ただ、軽部にはひとつの欠点があった。激しやすいのだ。決して気分屋ではないのだが、いちど感情を害すると、もう何を言っても耳を貸さないところがあった。そこが唯一の不安だったが、数多くの長所がそれを打ち消してあまりあるものだったから、希美はその短所にも目をつぶろうと思っていた。結婚したら、きっと丸くなってくれるという期待もあった。  だが——  大貫理奈がもたらした情報によって、その彼の性格的な短所がもろに出た。 「おれは決闘する」  いきなり時代がかった言い回しが、軽部の口から飛び出した。 「その野木って野郎と、おれは直接会って決着をつける」  軽部は、休暇をとってシアトルまで会いに行くと言いだした。いったんそう言い出したら、もう希美がどんな反対をしてもムダだった。そして彼は、希美だけでなく、理奈までもが現地へ行くことを要求した。第三者として客観的な立会人になってほしいということと、それからもうひとつ、PR誌での連載打ち切りを決める責任が理奈にはある、という言い分からだった。  希美は、理奈のようなタイプの子が自分のプライバシーに深く関わってくることを嫌った。しかし、むしろ今回のケースでは、部外者の彼女がそばにいてくれたほうがいいかもしれない、と思い直した。軽部と希美と野木の当事者三人では、どんな感情の暴走が起きるかわからないからだ。激しやすい軽部も、後輩社員がいれば少しは冷静な自分を見せようと努力するだろうという期待が希美にはあった。  そして三人は、会社には大リーグ見物と嘘《うそ》をついてシアトルへと旅立った。その大リーグの試合が行なわれるセーフコ球場を野木との再会の場所に——軽部にとっては「決闘」の場所にしようと提案したのは希美だった。  レイク・クレセントなどは、とんでもなかった。世界遺産にも指定されているオリンピック国立公園の美しい森と山に囲まれ、それでいて海も間近に迫る特異なロケーションの湖は、恋するふたりにとっては最高のロマンを与えてくれるが、感情のもつれあった男どうしにとっては修羅場となる可能性があった。  レイク・クレセント・ロッジは、いまだに客室には電話を引いていないし、テレビもないという。日が沈むとあたりはひっそり静まり返り、森の間から抜け出してきた鹿の親子連れが、闇《やみ》に閉ざされたロッジの前をのんびり横切ったりするような場所なのだ。その隔絶された環境は、ある意味で悲劇の舞台としても最適だった。  だから希美は、それとは対照的なにぎやかな都会を再会の舞台に選んだ。野球ファンでびっしり埋まった大リーグの球場である。衆人環視の野球場ならば、とてつもない事態は起きまいと思った。そして軽部に対しても、球場内ですべての話し合いを終えて、それ以外の場所では一切野木とは会わないとの約束も取り付けた。もちろん自分もそうするから、と約束して。  軽部はその提案に最初は渋い顔をしたが、けっきょく納得をした。あとは、当の野木にこの事態を知らせるプロセスがあった。希美は、それをすべて理奈に託した。彼女ならば、PR誌の連載を受け持つ作家と編集担当という関係で、事務的に事を進められると思ったからだ。  話はあっというまにまとまった。もともと希美に会うことが最大の目的である野木にとって、持ちかけられた話にノーという返事をするわけがなかった。あとは三人の休暇申請の日程を調整するだけとなり、そして渡米の日が、さらには大リーグ球場での再会の日が決まった。  なんということか、奇《く》しくもそれは「八年後の約束の日」と重なった。  野木のほうから指定したわけではないのに、三人そろって休暇のとれる期間と、シアトル・マリナーズのホームゲームのチケットを日本から予約できる日を重ねてみたら、その日しか条件を満たす日程はなかったのだ。  目に見えない大きな運命に動かされている——思ってもみなかった形での約束の実現に、永峯希美は震えた。       *   *   * 「ねえ、希美さん」  フリーウエイの道幅が少し狭くなり、高架道路となってシアトル市内の真ん中に入り込んできたころ、後部座席でずっと黙っていた大貫理奈が口を開いた。 「あたし言い忘れていたことがあるんです。あのね、野木さんって、地元の日本人の間では『シアトルの魔神』って呼ばれているんですって」  うふっと、理奈は状況をわきまえぬ軽い笑い声を発した。 「大魔神じゃなくて、ただの魔神。なぜそう呼ばれているんですかあ、ってきいたら、なんて答えたと思います。ぼくはふつうの人間とは違う感覚の持ち主だからだよ、ですってえ」  ハンドルを握る軽部勉の頬《ほお》がピクンと引きつったのが、助手席にいる希美の視野にも入った。 「あ、そこを」  気を取り直して希美は指示を出した。 「その出口を右に降りて」  硬い表情のまま軽部勉はハンドルを右に切り、高架から町中へと降りてゆく誘導路へ車を進めた。  いよいよ運命の場所に、三人は到着した。 [#改ページ]    3 日の沈まない街  理奈が予約しておいてくれたシアトルの宿は、坂の多い市の中心部から少しはずれたところにある中程度のホテルだった。隣がマクドナルドのハンバーガー・ショップで、裏手はちょうどビルが取り壊されて空き地になっており、工事のトラクターやダンプカーが出入りしていた。  しかし、決して悪い環境ではない。ロサンゼルスのような都市ではダウンタウン=環境劣悪というイメージが強いが、シアトルはロスやニューヨークなどでつねに感じていなければならない危険な匂《にお》いというものが薄かった。すぐ北がカナダであることと関係があるのかどうか希美にはわからない。けれども、八年前に野木といっしょにこの街を訪れたときにずいぶん健全な場所だなと思った印象は、今回も変わらなかった。  それは、夏場のシアトルの日の長さも影響しているかもしれない。六月下旬のこの時期は、一年のうちでも最も昼間の時間が長くなる。午後の六時、七時は完全な昼間。それどころか時計が午後八時を指しても、まだ太陽が輝いているのだ。九時でも太陽はだいぶ地平線に近づいてはいるものの、まだ明るい。これには希美はほんとうに驚かされた。午後九時が夜でないという感覚は、一種の衝撃だった。  九時半ごろにようやく陽光はその輝きを消すが、それでもまだ残照が空を明るくしている。あたりが文字どおりの夜となるのは十時を回ったころである。そして、午前四時半ごろには、もう空が白みはじめるのだ。つまり夜はわずか六時間少々しかない。  だから夏場のシアトルは、太陽という最大最強のガードマンが住民の安全を確保してくれる。会社勤めの人間は、夕方五時に終えても外に出たら真っ昼間という感覚である。十時を回ってからがナイトライフのはじまりだから、シアトル市内を走る公共機関の電車には終電という概念がない。終夜運行されているのだ。日本式にたとえれば、毎日が大晦日《おおみそか》特別ダイヤのようなものである。  八年前、ここにきた希美はそんな健康的なシアトルがすっかり気に入ってしまった。実際には雨や曇りの日がかなり多いのだが、たまたま滞在中がすべて快晴に恵まれていたことも、希美の印象をよくしていた。シアトルに隣接するベルヴュ市にはマイクロソフトの拠点があり、サラリーマンでありながらネット長者となった社員たちが優雅なアフターファイブを過ごすヨットハーバー付きのホテルなども素敵だった。 (そういえば……)  ホテルの窓からシアトルの空を見つめながら、希美は思い出していた。野木との二人旅でもっとも印象に残っているのは、もちろんオリンピック国立公園の中にあるレイク・クレセントだったが、シアトルへ戻ってからベルヴュへとドライブしたとき、ヤロー・ベイ・ホテルという、まさにマイクロソフトのヤッピー社員たちのたまり場となっているホテルに車を停め、そこからヨットハーバーをふたりで眺めたときの情景も記憶に刻まれている。  そのとき、野木はハーバーから吹き上げてくる強い風に髪を逆立てながら、こうつぶやいていた。 「同じ人間に生まれたなら、ケタはずれの金持ちになって、こういう最高の環境に住んで、文句のつけようがないくらいに優雅な人生を送りたい。そう思うよ。だからおれにとって大学を卒業してからの二十代は、その準備期間なんだ。ヘタに東京なんかで埋没するよりも、田舎の仙台に戻って、そこで基礎固めをする。コンピューターと英語の力をつけるんだ。そしていつかきっと、日本を飛び出してアメリカにくる。こういう場所で成功するために」  日本に戻ってからの野木は、シアトルやベルヴュの話はあまり出さなかったし、むしろ仙台の実家にいる両親のめんどうをみないと、などというきわめて生活臭を帯びた話題などをよく口にするようになって、まだ二年以上も女子大生活を残している希美をすっかり幻滅させたりもした。  しかし、あれから八年。大貫理奈から得た情報が真実であるならば、野木博之はたしかに夢を実現させたことになる。親の世話をいつも気にかけていた彼が渡米したということは、両親はもう亡くなってしまったのかもしれない。そして彼は、八年前にマイクロソフト社の牙城《がじよう》でつぶやいた言葉を、少しずつ確実に現実のものとしはじめている。  だからといって、仮に野木がネット長者になっていたとしても、もう彼への過去の想いは二度と復活しない、と希美は確信していた。それほど軽部に対する愛は強かった。お金や優雅な生活などで揺れるものではなかった。それだけに、自分がこんな形でふたりの男の板挟みになるのが希美は苦痛だった。理奈から野木の小説を知らされた軽部が、それ以来ずっと不機嫌で冷たいのも、希美の心にいくつもの錘《おもり》をぶら下げることになった。  誤解しないで、と、希美は何度も軽部に頼んだ。私が野木さんのもとへ戻るなんて、疑ったりしないで、と。だが、どんなに弁解しても軽部が疑っているのは事実だった。明らかに彼は、希美が学生時代の恋を再燃させるのではないかと恐れていた。  その気持ちはわからないではない。もしも自分が逆の立場で、軽部の学生時代の恋人だった女性が忘れ得ぬ熱い思いを小説に託したら、不安にならないはずがない。いらだたないはずがない。だから軽部の不機嫌は責められなかった。  だが、それにしても、日本を発《た》ってからの軽部は、あまりにも冷たすぎると希美は泣き出したい気持ちになっていた。  ホテルでは、もちろん軽部と希美はひとつの部屋をとった。いつもなら旅先でダブルの部屋をリクエストするふたりも、さすがに今回は当然のようにツインベッドの部屋にした。とてもではないが、希美は軽部とひとつのベッドで抱き合って眠る気分にはならなかったし、軽部はなおのことだろう。そして、ひとつの部屋にいることじたいが息苦しいような、頑《かたく》なな態度を彼はとりつづけていた。  同行した大貫理奈はツインのシングルユースだったが、彼女はふたりに気を利かしたのか、隣り合わせの部屋をとるのは避けて、フロアも一階上にある部屋を選んでいた。だが希美は、こんなことなら理奈といっしょの部屋にしたほうがましだったと思った。  到着初日は、昼すぎにチェックインしたホテルの部屋で、希美は死んだように眠りこけた。野木との再会を前に、あれこれ思い悩んで自分を追いつめてしまうことを恐れ、睡眠薬を飲んで寝たのだ。ふだんの希美は睡眠薬の世話にはめったにならなかったし、クスリ嫌いの軽部も、そんなものは飲まないほうがいいと、希美がびっくりするほど強い口調で咎《とが》めたが、ともかく希美には眠りの世界が必要だった。時差ボケのためではない。刻々と近づく再会のプレッシャーから逃れるためだった。そして、軽部の身体から発せられている怒りのオーラを浴びたくないためだった。  横になったのは昼の三時すぎだったが、眠りの途中で、希美は二度ばかりぼんやりと薄目を開けた記憶がある。  最初、希美は自分がどこにいるのかはっきり認識できなかった。ツインベッドの片方に寝ており、窓際のほうに置かれたもうひとつのベッドが空であることだけは認識できた。そして、レースのカーテンだけ引かれた窓ガラスの向こうには、明るい日射《ひざ》しが輝いていることも見てとれた。そのことだけを記憶の片隅にとどめると、希美はまた深い眠りに陥った。  二度目に目を開けたときも、外はあいかわらず明るかった。 (きょうはお休みだから、まだ朝寝坊してもいいな)  意識|朦朧《もうろう》としている希美は、会社が休みの日曜日に、自宅で朝寝をしている錯覚に陥っていた。レースのカーテンがかかっているため、外の具体的な景色は見えない。だが、日射しの明るさだけは生地を突き抜けて部屋を柔らかに照らしている。その感じが、自分の部屋にいるときの朝の光景によく似ていた。  そのとき現地時間では午後八時をすぎていたが、太陽の輝きをレース越しに感じ取った希美は、まだ遅い朝だと思い込んでいた。実際、シアトルで夏時間の「夜」八時は、日本では正午になる。だから、外の光の感覚だけでいえば、日本にいたときと身体のサイクルが合うのだ。ほんとうは時差ボケによって体内のサイクルが混乱しているはずなのに、沈まない太陽にだまされて身体が疲れを感じない。真の疲れがどっと出るのは、午後十時をすぎて日が暮れ、ほんとうの夜が訪れてからである。しかし、睡眠薬と、沈まぬ太陽と、時差ボケの三つの要因が微妙に絡み合った状態の希美は、半覚醒状態を二度迎えたあと、さらにこんこんと寝入ってしまった。  そのつぎに目を覚ましたとき、外はすっかり暗くなっていた。部屋の明かりも点《つ》いておらず、レースのカーテン越しに建物の明かりやネオンとみられる光がにじんでいた。 (え、こんなに寝ちゃったの?)  まだ日本にいるつもりの希美は、その驚きで、あわてて半身を起こした。何時だろうと思って枕元のデジタル時計に目をやるとPM11:07 と、緑の文字が淡い照明に浮かび上がっていた。それだけが室内に灯《とも》る唯一の明かりだった。  二度目に目を開けたときから、じつはたった三時間しか経っていないのに、自分がシアトルにいること、そのシアトルでは夜の八時、九時でもまだ明るいことなどを忘れている希美の頭脳は、日本の自宅で丸一昼夜寝てしまったような錯覚に混乱した。  だが、数秒のうちに自分の居場所を認識すると、ようやく彼女は自分が寝ていた時間を正しく逆算することができた。午後三時ごろに寝て、夜の十一時に起きた。八時間。ごくあたりまえな睡眠の長さである。 「ツトム」  やっと自分のおかれた状況を思い出した希美は、暗い部屋を見回しながら恋人の名を呼んだ。 「ツトム、いる?」  返事がなかった。  もういちど希美は時計に目をやった。まちがいなく午後の十一時すぎである。こんな時刻に、軽部は希美を部屋に残したままどこかへ外出してしまったのだろうか。希美が時差調整のためと称して睡眠薬を飲んで勝手に先に寝てしまったわけだから、彼が退屈してどこかへ出かけたとしても文句は言えない。 (もしかすると、理奈もいっしょなのかな)  そんな考えがチラッと頭を掠《かす》めたとき、コトリ、と部屋のどこかで物音がした。反射的に希美は身をすくめた。  さほど広くもないツインルームで、ベッドのある場所から直接目が届かないところといえば、バスルームしかない。 「ツトム、トイレなの?」  呼びかけたが、返事がない。しかし、いまのは明らかに人間が立てた物音のように希美には思えた。  ざわっと、皮膚の毛穴が持ち上がるのを感じながら、希美はもう一回呼びかけた。 「ねえ、ツトム、そこにいるんでしょ?」  まだ返事がない。  恐怖が寒気という形で押し寄せてきた。希美は、上はTシャツ、下はパンティ一枚という格好で寝ていたが、それまでは適温に調整されたエアコンディショニングのおかげで寒さなど感じなかった。だが、いまは腕をさすると「おろし金」を連想させる硬い粟粒《あわつぶ》がびっしりと浮かび上がっていた。 (誰かがバスルームにいる。でも、ツトムじゃない)  恋人どうしだけに感じ取れる「波動」のようなものが、希美に伝わってこないのだ。どんなに静かにしていても、同じ部屋の中に軽部がいれば、独特の気配が伝わってくる。肌を合わせた者だけがたがいに察知できる生き物のオーラが。  しかし、人の気配は感じても、それは軽部のものではないという確信があった。 (もしかして?)  とてつもない可能性に——しかし、じゅうぶんにありうる可能性に思い当たり、希美は身をこわばらせた。 (ヒロが、部屋に忍び込んできた?)  セキュリティのしっかりしたホテルでそんなことがありうるのか、という論理的な検討は脇《わき》に追いやられていた。八年目の再会を求め、軽部がいないスキを狙《ねら》って野木が部屋に忍び込んできた——そんな空想が一気に脳裏に広がった。  そう思ったら、八年前には毎日のように感じていた野木の気配が、そこに漂っている気がした。しかし、さすがに「ヒロ?」とは呼びかけられない。もしも軽部だったら、彼の気分を決定的に害してしまう。  ともかく部屋を明るくしたかった。希美はデジタル時計の明かりだけを頼りに、部屋のスイッチを入れた。外国のホテル特有の、フロアスタンドとデスクランプだけが灯《とも》る頼りない照明だったが、ないよりはマシだった。そして希美は、自分の下着に目をやって、ともかく何かを穿《は》かなければと思った。  そのとき——  ジャーッという水洗の音がトイレから聞こえた。  心臓が凍りついた。  まさかそんなはっきりした音を立てて、バスルームの人物が自分の存在を示すとは思わなかったからだ。希美はとっさにどこかに隠れようかと思った。が、身を隠す場所などどこにもない。唯一あるクロゼットはバスルームの真横だ。  カチャッとノブを回す音がして、バスルームのドアが開いた。オレンジ色のルームライトに染められた床に、新たな照明の黄白色が、扇を開くように重ねられていった。  希美は緊張で全身の筋肉を収縮させたまま、ベッドの脇に棒立ちになっていた。息もできなかった。  すると、死角になっていたコーナーから人影がゆっくり現れた。 「すみませえん」  相手を確認したとたん、希美の全身から力が抜けた。おずおずと肩をすぼめながら出てきたのは、後輩の大貫理奈だった。  トレードマークの甘ったるい声を出して、理奈は上目づかいに希美の反応を窺《うかが》った。 「脅かしちゃいましたあ? 永峯さあん」 「なんで理奈が私たちの部屋にいなきゃならないのよ」  とりあえずは野木などでなかったことに安心しながらも、希美は理奈が自分たちの部屋に入り込んでいたことに不審を抱いて問《と》い質《ただ》した。 「あたし、トイレお借りしていたときに急に呼びかけられたんでびっくりしちゃって。なんか答えにくいじゃないですかあ、おトイレで腰下ろしているときに、は〜い、理奈で〜すっていうのも」 「そのことじゃなくて、私がききたいのは、どうして理奈がここにいるのかってこと。部屋のカギはどうしたのよ」 「あ、これですねえ」  そう言って、理奈はカードキーを右手でつまんで顔の前にかざした。チェックインするときに、希美たちには二枚渡されたものだった。部屋番号の521は、いまいるこの部屋のナンバーだ。 「軽部先輩からお借りしたんです……っていうか、渡されたんです」 「ツトムから?」 「そうで〜す。はい、お返ししておきますね」 「なぜ、彼がキーをあなたに」  理奈から受け取った軽部のぶんのカードキーを手にしながら、なおも希美はきいた。 「そろそろ起こしに行ってこい、 って言われたんですよー」 「起こしに? 彼はいまどこなの」 「下のバーです。一階にあったでしょ。飲んでます。もう、べろん、べろん」  理奈は自分の上半身を揺らしてみせた。 「やっぱ、自分で言いだしたはいいけど、相当プレッシャーみたい。明後日の対決が」 「そういえば、理奈」  大貫理奈のシアトルでの重大な役目を思い出して、希美はきいた。 「こっちに着いてから、野木さんには連絡をとったの?」 「とりました、もちろん」  理奈の口調が急にピシッとした言い方になった。そういう口調の変化を、希美はこの後輩にときどき感じることがあった。そんなとき、リカちゃん人形風の甘ったるくてトロい言い回しは、あくまで営業用なんだな、と醒《さ》めた気分にさせられる。いまがそうだった。 「で、どういうことになったの」 「予定どおりです。軽部先輩の希望どおり、男どうしの話し合いをすることは了解。そして、永峯先輩の希望どおり、明後日マリナーズの試合が行なわれる野球場のスタンドを会談の場所とすることも再確認オッケー」 「でもチケットは? よく考えたら、三枚つづきの席しか用意していないのよ」 「そのときがきたら、もちろん部外者の大貫理奈、席をはずします」  理奈は、ふざけているのかマジメなのか、そこで敬礼のポーズをとった。  そして、パッと手を下ろしてから、つづける。 「野木さんは当日売りのチケットを適当に買って、それで球場に入ってくるそうです。あたしたちの席はもうわかっているから、番号は伝えておきました。プレイボールがかかるころには、間違いなく行くとおっしゃってました。……あ、ちなみに試合開始は七時五分です」  七時五分——  理奈が口にしたその時刻の妙に細かいことが、ほんの一瞬だが希美の脳裏に引っかかった。希美は、こんな出来事でもないと野球観戦などしようと思ったことはなく、日本の野球事情にも疎いのだが、日本の場合は試合開始が六時とか、六時二十分とか六時半とか、たしかそんな時刻だった気がした。なかなか日の暮れないシアトルなどでは、七時という時間帯が遅いうちには入らないのだろうが、気になったのは「五分」という、妙に細かい時刻である。なぜ七時ちょうどでなく、七時五分なのか。  だが、その疑問が希美の脳裏を占めたのは十分の一秒にも満たず、すぐに彼女は野木のことに意識を戻した。 「それで、ほかに何か言ってた? 野木さんは」 「なかなか切り出せなかったですよお」  また元のとろ〜んとした口調に戻って理奈は言った。 「切り出せなかった、 って、なにを」 「ですからあ、軽部先輩からの強引な要求の件ですよ。『かがやき』での小説連載を中止しろ、野木は切れ、 っていうリクエストですよ〜」  淡い照明の下で、理奈は困ったように眉《まゆ》をハの字に下げた。 「そりゃ、軽部さんの気持ちもわかりますし、いまとなっては希美さんの立場もわかりますよ。でも、あたしはそんなこと知らないで、純粋に野木さんのカッコよさが買いだと思って、それで宣伝の部会で提案して、野木さんの売り込み企画を通したわけじゃないですかあ。野木ってどこの誰だ、なんて言う部長を説得してね。そうやって、やっとはじまったこの連載を、あたしのほうからやめましょうと言い出せるわけないじゃないですかあ。だから、きょうの電話ではとても言い出せませんでした。んで、そのこと、軽部さんに報告したら怒っちゃって、またウィスキーのピッチがあがったりして」 「電話なのね」  希美は、理奈の言葉尻《ことばじり》を捉《とら》えて確認した。 「理奈と野木さんは電話で話したのね」 「そうですよ」 「直接は、まだ会ってないのね」 「はい。……あ、そうだ、希美先輩にもあとでメモ渡しますね」 「なんの」 「野木さんの連絡先ですう」 「要《い》らない」  希美はきっぱりと言った。 「私には不必要よ」 「そうですかあ」  理奈は、厚意を無にされたような不服そうな表情になった。 「それから私の連絡先は、間違っても彼に教えないでね」 「え、いけなかったんですかあ」 「理奈!」  希美の表情が険しくなった。 「いけなかったんですか、 って、どういうことよ。教えたの、私の連絡先」 「はい、すごくしつこくきかれたんで」 「どこの連絡先を教えたのよ。会社の直通?」 「べつに会社の番号なんて、直通でなくても、野木さんはあたしの名刺は持ってるわけですからあ、その気になれば希美さんに連絡とるのはかんたんでしょ。それができないで、きいているってことは〜」 「プライベートの番号を教えたの?」 「電話は教えませんよお、電話は」  笑いながら、理奈は顔の前でパタパタ手を振った。 「だけど業務用のメールアドレスは教えちゃいましたあ」 「理奈!」 「だけど、業務用だから」 「関係ないじゃない!」  希美は大きな声をあげて怒鳴った。 「業務用だろうが、メールはプライベートなものよ。なんで、あなた、そういうよけいなことするの」 「だって……」  責め立てられた理奈は、いまにも泣き出しそうな顔になった。 「永峯先輩に喜んでもらえるかと思って」 「どうして私がうれしいのよ。私とツトムは……もうこのさいだから、あなたにはハッキリ言ってしまうけど、来年早々には結婚すると決めているのよ」 「えっ!」  理奈はびっくりしたように目を見開いた。 「ほんとですか」 「会社にはまだ誰にも言ってないわ。私たちが結婚することは、だいたいみんな想像しているだろうけど、そこまで話が具体的に進んでいると教えたのはあなたが初めて」 「そうなんですかあ……」  少し間を置いてから、理奈は急に笑顔を作って言った。 「おめでとうございまあす」 「話をそらさないで!」  希美は、ピントのずれたリアクションをする後輩にいらだって、また声を荒らげた。 「とにかく私は、もう軽部勉以外の男は考えられないの。だから、よけいな気を回さないでほしい」 「わかりましたけどー、でも、もったいないじゃないですかあ、あんなカッコいい人の愛を無視するなんて」 「私ね、すっごく後悔してるわ」  すっごく、というところに力を込めて、希美は言った。 「あなたもシアトルに連れていくというツトムの意見に賛成したことを。やっぱりこれは、私とツトムのふたりで解決しなくちゃならない問題だった」 「すみませえん」  肩をすくめてから、理奈はぺこんと頭を下げた。  そして、下げた頭をすぐには戻さず、希美の下半身まで視線を戻したところでしばらく止め、それからゆっくりと顔を上げていった。 「永峯先輩、すっごく可愛《かわい》いパンティ穿《は》いてるんですね」  前歯をチロッとのぞかせて、理奈は言った。 「なんか、先輩のイメージじゃないみたい」 「よけいなお世話」  相手が男でもないのに、希美はベッドのシーツの裾《すそ》をサッと引っぱって、それで前を隠した。 「ともかくすぐに着替えて下のバーに行くわ。理奈は先に行ってて」 「はあい」  追い出されるようにして部屋を出ていくとき、いちど希美のほうをふり返って、理奈は言った。 「シアトルって、なかなか日の暮れない街なんですね。あたし、好きになっちゃいましたあ」 [#改ページ]    4 心変わり  シアトル滞在三日目——  軽部の運転する車で、希美たちがセーフコ球場の前に到着したのは、試合開始三十分前の午後六時半だった。もちろん、この時間では空は青空、太陽もぎらぎらと輝いている。例によって軽部と希美はサングラスをかけていたが、きょうも理奈はサングラスをしていない。  車をどこに停めてよいのか三人ともわからなかったが、英語が流暢《りゆうちよう》な軽部は、運転席の窓を下ろして街を歩く人間に気軽に声をかけ、そして球場の向かい側にあるイタリアンレストランの前あたりが、時間貸しの駐車スペースになっていることを教えられて、そこへ車を停めた。 「さてと」  車をロックして外に出た軽部は、黒いサングラスに初夏の太陽を煌《きら》めかせて希美に向かって言った。 「いよいよ世紀の対決というわけだ」 「ひとつお願いがあるの」  希美が軽部を見つめ返して言った。  おたがいに濃いサングラスのために目の表情が読みとれない。それがいまの自分にとっては好都合だと、希美は思っていた。シアトルにきてからというもの、徐々に軽部勉という男に対する幻滅が募りはじめていることが、目つきからバレてしまいたくなかった。 「乱暴だけはやめてね」 「乱暴?」 「そうよ。殴り合いとかつかみ合いをするような真似はしないで」 「………」  軽部の黒いレンズが、希美の黒いレンズをじっと見つめた。  そして、たっぷり間を取ってから、軽部は言った。 「自分が蒔《ま》いた種のくせに、そんな要求ができた義理かよ」 「私が蒔いた種?」 「そうだろ。希美が野木なんて男と関係を持たなきゃ、おれはこんな苦しみはせずにすんだんだ」  それはあまりにもこじつけだと思った。だが、いまの軽部に何を言っても聞く耳は持たないだろうと、希美はあきらめて黙っていた。すると、さらに軽部は吐き捨てるようにつけ加えた。 「希美が面食いだったとはな、知らなかったよ」 「ツトム」  さすがに黙っていられなくなって、希美は言い返した。 「たしかに私は面食いかもしれない。だからあなたを好きになったのよ」 「へ」  サングラスをかけた軽部は、地元アメリカ人のように両手を広げて肩をすくめた。 「そりゃどうも」  そしてくるりと希美に背を向けると、勝手についてこいと言わんばかりの態度で、セーフコ球場側へ渡る横断歩道のほうへ歩いていった。  希美は、サングラスをしていない理奈の眼差《まなざ》しが、むき出しの好奇心に輝いているのをチラッと見て、重いため息をついた。この旅に出てからというもの、何度こういう重苦しい吐息を洩《も》らしたかわからなかった。そして、昨日おとといのことが頭に蘇《よみがえ》った。  到着初日は、希美が睡眠薬を飲んで早く寝てしまったが、二日目の昨日は軽部が二日酔いと時差ボケが重なってダウンしていた。  初日の夜、目を覚ました希美が理奈に呼び立てられる格好で軽部の待つバーへ降りていくと、理奈が表現していた以上に軽部は酔っぱらっていて、ホテルのバーテンダーは明らかに迷惑そうな顔をしていた。けっきょく軽部は、呼びつけた希美に対して、もしも野木という男がおまえをあきらめないんだったら、おれはただじゃ済まさないからな、と同じことを何度も繰り返すばかりだった。  そんな愚痴をいくら聞いてもキリがないと思った希美は、無理やり軽部を立たせて、理奈にも手伝ってもらって部屋に連れ帰った。理奈は、少しは軽部先輩の話も聞いてあげないと可哀相《かわいそう》ですよお、男には男の気持ちがあるんだから、と一人前の口を利いたが、希美はそれを無視した。  部屋に帰ってからの希美は、自分はすでにしっかりと睡眠をとってしまっていたから、片方のベッドで服を着たまま高いびきをかいて爆睡する軽部を見つめながら、暗澹《あんたん》とした気持ちで朝まで一睡もせず起きていた。  軽部は朝の九時ごろいったん目を覚ましたが、気持ちが悪いといってトイレで吐き、猛烈な頭痛がすると言って、またベッドにもぐり込んでしまった。  希美は少しはシアトルの時間に身体を慣らさないとまずいと思って、その日は夜まで寝ずに起きていようと思った。そして、理奈を誘って少しシアトルの街をぶらぶらすることにした。ほんとうはひとりのほうが気楽だったが、なんとなく理奈と軽部をふたりきりにさせたくなかった。べつに、あらぬ心配を抱いたわけではない。そうではなく、理奈が軽部に向かって、希美のことを悪く考えてしまうような話し方をする気がしてならなかったのだ。  つまり、大貫理奈という子は他人の不幸が本能的に好きなのだ。はっきりとそうわかったから、希美は逆に理奈のペースにはさせまいと思った。だから昨日は自分から外に誘いだした。  八年のブランクがあるといっても、シアトルは初めてではないから、記憶を頼りに、そこそこ案内役を務めることができた。しかし、意図せずしてシックス・アベニューのパイク・プレイス・マーケットまできたとき、突然、野木博之との旅の想い出が蘇って胸が苦しくなった。  そこは野菜、果物、生花を中心とした市場だった。そして、赤や黄色や緑のピーマン類がアクセサリーのようにつなげられて店の軒先にぶら下がっているのを見たとき、八年前の場面が鮮やかに希美の心に蘇った。  野木が手を伸ばして、色とりどりのピーマンをネックレスのようにして希美の首にかけたのだ。それを希美が喜ぶと、店の太ったおばさんに向かって、「じゃ、これ丸ごとちょうだい」と身ぶり付きの日本語で言って買ってくれた。そして、その風変わりなネックレスをしたまま、希美は野木と手を繋《つな》いでマーケットの中を歩いていったのだ。そんな格好をする買い物客は他にいないから、いたるところで笑いかけられた。でも、それがまた楽しくて、希美は「ハ〜イ」などと手を振って愛嬌《あいきよう》をふりまいた。そして、野木の手を堅く握ったもう一方の手を、さらに強く握りしめながら彼の肩に頬《ほお》をこすりつけるようにした。  野木の身体の匂《にお》いがした。  その同じ場所に、同じ店があって、同じようにピーマンをネックレス状にして軒先にぶら下げて売っていた。記憶に残っている太ったおばさんはいなかったが、それ以外は八年前の風景と少しも変わっていなかった。  ほかにも想い出はある。シアトルにはマウント・レーニア——レーニア山というシンボル的存在の山がある。標高四〇〇〇メートルを超すこの山は、先住民によって霊峰と崇められ、彼らの言葉で「水の源」を意味するタコマと呼ばれていた。それがいまのシアトル・タコマ国際空港の名称にも用いられている。その霊峰の名を冠した「レーニア・チェリー」という果物は、実が大きくて甘いさくらんぼだ。マーケットの一角にびっしり並べられたレーニア・チェリーを見つけ、野木といっしょに試しにつまんでみると、あまりにも美《おい》味しかったので、どっさり三ポンドも買った覚えがある。三ポンドというその分量まで、なぜかはっきり覚えていた。両腕に抱えてホテルまで帰った紙袋の大きさも感覚的に残っていた。いま見ると、一ポンド三ドルという表示が出ていた。 「ねえ、永峯先輩」  市場の光景に目をやりながら、自然と歩みが遅くなってきた希美に向かって、理奈が例のチロッと前歯を見せる表情で問いかけてきた。 「なんか、ひとりで想い出に浸ってません?」  なぜかこの日は、希美は理奈のそういう言葉に腹が立たなかった。わずか一日前、シアトルに着いてすぐの段階で、この場所で同じ質問を理奈から投げかけられていたら、たぶん「なに言ってるのよ」と怒っただろう。実際、前日の夜は、部屋にまでやってきた理奈に、野木との訣別《けつべつ》の意思に変わりはないことを断言した。そして、希美のメールアドレスを無断で野木に教えてしまった彼女を、なかば本気で怒鳴りつけた。  ところが、二日目の気分は変わっていた。野木との想い出に浸っているのではないかという含みでからかわれても、不思議と腹が立たない。逆に、二日酔い状態のままホテルの部屋で眠りつづけている軽部の姿を思い起こすと、妙に不愉快になった。  明らかに、希美の心の中で何かが変わりつつあった。その心変わりを、希美は必死になって否定しようとしていた。そうでないと、自分で自分の気持ちを見失ってしまいそうだった。  そして三日目——  希美はいよいよ「運命の日」を迎えることになった。それが別の意味で「運命の日」になってしまうことなど夢にも知らず……。 「おい、渡るぞ」  歩行者用信号が青になったのを見た軽部が、首だけ後ろに向けて、希美と理奈に呼びかけた。  目の前がセーフコ球場だった。シアトル・マリナーズのチーム名をあしらった大きな垂れ幕が建物の壁に等間隔で垂らされている様子は、野球場というよりも、美術館を連想させた。その巨大な建物に向かって、きょうのマリナーズ対エンゼルスの試合を観にきた野球ファンが続々集まってきている。佐々木と長谷川の両投手の登板も予想されるとあって、日本人の姿も目についた。  横断歩道を渡ってその人波に合流しながら、希美は胸の高鳴りを抑えることができなくなっていた。現在の恋人と過去の恋人との間で、いったいどんなやりとりが展開されるのだろうか、という不安よりも、もっと別の要因が希美の鼓動を速めていた。  その興奮は、かつて野木を愛していたときに、いつもデートの前に感じていたあの感情の高ぶりにそっくりだった。  試合開始の午後七時五分まで、あと二十五分—— [#改ページ]    5 スタジアムの再会  純粋な大リーグ観戦だったら、きっと楽しかっただろう。希美にとってはスタジアムで生の野球を観るということじたいが初めてだった。その初体験が本場大リーグの試合なのだから、なおさらのはずだった。しかし、圧倒されるような広々としたスタンドに立っても、希美の心を支配しているのは、野球とは無縁の高揚感と、そして全身の細胞が収縮するような緊張だった。  一九九九年七月に完成したシアトル・マリナーズの新本拠地セーフコ球場は、ドームではないが、開閉式の天井を備えた全天候型スタジアムである。シアトルは雨の多い街であるため、屋根付き球場は大リーグの過密スケジュールをこなすには必須の条件となる。しかし晴れた日には、そのシステムの存在すら忘れさせる完全にオープンな野外球場の観を呈していた。  時刻は午後の七時に近づいていたが、空は依然として昼間の色合いを保っている。ただし、試合のために照明灯はすべて点灯されており、青空をバックにしたカクテル光線の輝きが、スタジアムに一種の劇場効果を投げかけていた。  希美と理奈の先頭に立ってスタジアムの中に入った軽部は、すぐには席へ着こうとせず、プログラムなどを売っている売店の係員に何事か英語で話しかけていた。そして、希美たちのほうへ戻ってくると、「ちょっとこっちへ行こう」と言って、地下へ降りる階段のほうへ早足で進んだ。 「どこへ行くの」  サングラスを額の上に載せる形で上げた希美は、金髪、銀髪、赤毛、黒髪の入り交じる観客たちの間をすり抜けながら、軽部の横に追いついてたずねた。 「ねえ、どこへ行くのよ。スタンドはあっちでしょう」 「ショップに行く」  サングラスをかけたままの軽部の返事は、非常に短い。 「ショップ?」 「そう。この下にあるそうだ」 「飲み物なら、すぐそこでも売ってるじゃない」 「飲み物なんかじゃない」 「なにを買うの」 「いいからこいよ」  そして彼は速度を緩めずに階段を降りていった。仕方なしに、希美は理奈といっしょについていく。だが、まるで亭主関白のように、何の説明もなしに黙っておれの言うことを聞けという態度をとる軽部を見るのは、希美にとって初めてだった。もちろん、気分のいいものではない。  希美は、動物を主人公にしたアニメ映画に涙を流し、街でよちよち歩きの小さな子供を見かければ思わず声をかけずにはいられない軽部のやさしい姿を必死になって思い起こそうとした。だが、いまはそれが無理になっていた。  階段を降りきった下には、マリナーズのキャラクター商品をずらり並べた店があった。いわゆる「売店」といった簡素なものではなく、ちゃんとしたキャラクターショップである。すぐに目につくのは、人気選手の名前と背番号をプリントしたTシャツ類や帽子類。ボールペン、灰皿、ペン立て、絵はがきといったものもあるし、サインボールや球団オリジナルの使い捨てカメラなども置かれていて、試合開始前の買い物客でごった返していた。  背番号22を配した佐々木主浩投手関連の商品を置いてある一角から、にぎやかな日本語の会話が聞こえてきた。見ると、日本人の学生らしいカップルが、背番号22のトレーナーを胸に当ててサイズをみていた。希美は、またここでも八年前の「自分たち」を思い出した。  消そうとしても消そうとしても出てくる野木のイメージをなんとかふり払うと、希美は自分の腕時計を軽部に示して言った。 「ツトム、約束の時間まであまり余裕がないのよ」  時計の針は、刻々と七時に近づいている。自分の人生の大きな分岐点ともなるかもしれない再会のときが、もうすぐやってくるというのに、軽部がこんな店で買い物をしようとしていることが信じられなかった。  希美の催促を無視して、広い店内の入口に立って中の配置を見回していた軽部は、目的のものを見つけたらしく、早足でそこへ向かっていった。 「希美、それから理奈もちょっとこい」  彼が呼び寄せたのは、マリナーズの野球帽を売っているコーナーだった。 「これぐらいがちょうどいいだろ」  そう言いながら軽部は、希美の頭にSサイズの野球帽をちょこんと載せた。そのはずみで、額に上げていた希美のサングラスが、ストンと鼻のところまで落ちた。 「なんなの、これ」  サングラスをきちんとかけ直しながら、希美はもう一方の手で頭に載せられたシアトル・マリナーズのキャップをさわった。 「買ってやるよ」 「要《い》らないわ、こんなもの」 「要るんだよ……ほら、理奈もこい」 「どうしてあたしも?」  大貫理奈も、軽部の真意がまったくわからないという顔で問い返した。 「理由はいまから説明する。とにかく、サイズはいいな」 「いいけど……」 「それとこれもだ」  軽部は、こんどは近くにあったサングラス売り場のところへ理奈を引っぱってゆき、濃い色のレンズがはまったサングラスを理奈にかけさせた。希美がしているものとはデザインは異なっていたが、同じキャップをかぶってそのサングラスをかけると、ふたりはよく似た印象になった。  ただし、服装はまったく異なっている。  希美は真っ白なTシャツの上に、ジーンズの長袖《ながそで》ジャケットを羽織り、下もジーンズ。全体としては紺色の印象だ。一方、理奈はかなり鮮やかな赤いブラウスに黒い革のミニスカートとブーツ。とくに上半身の赤が目立って、全体としては赤の印象。だから、ふたりが並んでも服装からくる印象はまったく違っていた。けれども野球帽とサングラスといういでたちが、まるでペアルックのようにいっしょなのが希美は気になった。しかも、ふたりの身長はたいして変わりはない。  野木との再会を前にして神経が過敏になっているせいか、希美は不吉な連想をした。いつか見たテレビのニュースで、よく似た服装の人間が間違えて殺されたという事件をやっていた。たしかそのとき、いっしょに見ていたのは軽部ではなかったか。 (たまんないよなあ、人まちがいで殺されるなんて。そういう人生の終わり方って、最悪だな)  そうだ。たしかに軽部はそう言っていた。そんなに昔のことではない。ほんの二カ月か、三カ月前のひとこま……。 (まさか)  希美はサングラス越しの視線を軽部に向けた。 (この人、とんでもないことを考えているんじゃ……)  そのとき、訝《いぶか》しげな表情の希美や理奈に向かって、軽部が言った。 「ようするにさ、テレビに映りたくないんだよ」 「え?」  え、ときき返したのは、希美と理奈といっしょだった。 「マリナーズの勝ちパターンに入れば、抑えで佐々木が出る。少ない点差で進めば、エンゼルスは後半の中継ぎで長谷川が出る。場合によっては、ふたりの日本人ピッチャーが投げ合うかもしれない。当然、このゲームは衛星放送で日本でも生中継されるし、それからテレビ各局が、日本からやってきたファンも大声援っていう切り口でスタンドを映すかもしれない。そういうときに素顔で写りたいと思うか? ぼくたち三人はこの試合を見に行くために会社を休むことになっているんだ。社の連中だって、目を皿にしてテレビを見るかもしれない」  なるほど、と希美は思った。  三人で楽しそうに観戦しているところを撮られるならべつにかまわない。けれども、いまの希美に笑顔が出るはずもない。軽部にしても険しい顔つきは隠せない。そんな様子をもしもテレビに捉《とら》えられてしまったら、不審を抱かれるのは当然のことだ。会社の人間だけではない、希美の母親も「軽部さんといっしょにテレビに映るかもしれないから、ビデオを撮っておいてあげるわよ」と、出発まぎわに電話をかけてきた。何も知らない母を心配させたくはなかった。  そのリスクを避けるためのサングラスとキャップなら理解はできる。希美は取り越し苦労の連想を引っ込めて納得し、理奈も「そうだよね」と同意した。そして軽部は自分用の帽子も買って、すべて彼がまとめて代金を支払って店を出た。  マリナーズのキャップにサングラスをかけた希美たちが、バックネット中段の所定の席に着いたのは、プレイボール七分前の午後六時五十八分だった。  のちに、セーフコ球場の悲劇をシアトル市警が調査したときに、事件の推移を正確な時刻で追跡できたのは、ふたつの理由があった。ひとつは、現場が大リーグの試合が行なわれている野球場であったために、事件の背景で進行している試合状況と重ね合わせれば、正確な時刻が分単位で割り出せたこと。そしてもうひとつは、いわば立会人の役割でこの場にきた大貫理奈が持参していた、高性能の小型デジタルビデオカメラの存在だった。  三人の席は、階段通路に面した席から右奥へ三つ並んでいた。軽部は理奈を真っ先に奥の席へ座らせ、その隣に希美がいくように命じて、いちばん階段寄りに自分が腰を下ろした。  とりあえず席に腰を落ち着けると、理奈がバッグから小型のデジタルビデオカメラを取り出してレンズキャップをはずした。 「なに、それ」  希美が見咎《みとが》めてきいた。 「なに、 って、ビデオですけど〜」 「わかってるけど、なんのためにそんなもの持ってきたの」 「記念にですよー、せっかくアメリカまで大リーグの試合観にきたんですから、いろいろ撮っておきたいじゃないですかあ」 「私たち、野球を観るためにシアトルまできたの?」  希美は冷たい口調で咎めたが、理奈は頓着《とんちやく》しない様子でビデオカメラの電源を入れ、笑いながら答えた。 「じゃないことぐらいわかってますけどー」 「けっきょく理奈にとってはどこまでも他人事《ひとごと》ってわけね。私やツトムがいまどういう心境かわかっているくせに、観光気分でビデオ回せるなんて」 「べつに観光気分ってことはないですよお。これからの展開、心配してますう、すっごく。けどー、あたしまでがいっしょになって緊張したら、永峯先輩たちはもっと気分が重くなるじゃないですかあ。だから、はい、こっち向いたりなんかしてえ」  理奈はビデオカメラの録画スイッチを入れて、液晶画面を覗《のぞ》きながらレンズを希美のほうへ向けた。 「やめなさいよ、撮らないで」  希美は右手を伸ばして、理奈の持っているカメラを反対方向へと押し戻した。  ちょうどそのとき、エクスキューズ・ミーと声がかかって、理奈のすぐ隣に座っていた白人の老夫婦らしいカップルの、男性のほうが立ち上がって通路へ出ようとした。  理奈はオー、イエスと——それしかとっさに出る英語はなかったが——ビデオを片手に持ったまま、老人を通すために膝《ひざ》を席のほうへ引き寄せた。が、それだけでは通りにくそうなので、きちんと立ち上がって老人のためにスペースを空けた。  まばらになった淡い金髪の、メガネをかけた老人は、サンキューとにっこりほほえみかけて理奈の前を通り過ぎた。そして、希美と軽部も席から立って彼のために前を空けた。その間、理奈のビデオカメラは回りっぱなしだった。  老人を通したあと、希美と理奈はまた席に腰を落ち着けたが、軽部は立ったままふたりにたずねた。 「なにか飲み物でも買ってこようか」 「いらない」  と、希美は首を横に振ったが、理奈は、 「あたし、コーラ」  と、まるで状況の深刻さを把握していない気軽な口調で頼んだ。 「わかったよ」  軽部はうなずくと、階段通路を後方に向けて上っていった。  そして彼が行ってからまもなくだった。観客が急に歓声をあげたので、希美はもう試合がはじまるのかと思ってグラウンドに目をやると、スパンコールをちりばめた純白のステージドレスを身にまとった黒人女性が、スタンドの観客たちに手を振りながらピッチャーズ・マウンドのほうへと歩いていくところだった。それに伴って英語のアナウンスがあり、観客席にいた人間が全員起立した。  希美はアナウンスの内容をはっきり聞き取れたわけではなかったが、状況からみて、その女性が国歌を歌うのだということは容易に推測できた。  思ったとおり、マウンドの上にはスタンドマイクが用意されていて、その前に立った黒人の女性が伴奏なしでアメリカ合衆国国歌を朗々たる声を響かせて歌いはじめた。  ちょうど時刻は午後七時を回ったところだった。 「やっぱ、アメリカは違いますね」  理奈が希美の耳元に口を近づけてささやいた。 「こういうセレモニーって、特別な試合のときだけだと思ってました」  希美も同感だった。「日の丸」はまだしも、国歌「君が代」に関しては、国民のコンセンサスがまったく取れていない日本と違って、アメリカの場合は国民的スポーツの試合がはじまる前には、必ず星条旗のもとで国歌が演奏され、歌われる。全国民が星条旗とアメリカ国歌に敬意を払っているのが、希美にもひしひしと感じられた。  希美はこの世界的に知られた国歌の歌詞の意味をとろうとしたこともなかったし、スタジアムのPAを通して響き渡る歌声からも、その詞を聴き取ることはできなかったが、合衆国国歌の題名は�THE STAR SPANGLED BANNER"——日本語に訳せば「星をちりばめた軍旗」——という。  このSPANGLEには「きらきらしたものをちりばめる」という意味と同時に、光り輝く小さな円形の薄片のことも指す。そして「スパングル」の「グ」とも「ゴ」ともつかぬあいまいな発音を正確に聞き取れず、また適切な表記法もなかった日本人が、きらめく「スパングル」をちりばめた衣裳《いしよう》を「スパンコール」と呼ぶようになった。だから、この米国国歌を歌うために登場した歌手がスパンコールの衣裳で登場したのは、それなりに意味がある装いだったのだ。  この合衆国国歌となった楽曲のルーツは十九世紀初期に勃発《ぼつぱつ》した米英戦争に遡《さかのぼ》る。首都ワシントンに攻め込んだ英軍がホワイトハウスをはじめ連邦政府のあらゆる建物を焼き払ってから約二十日後、ボルチモアの戦闘で英軍の猛攻に耐えながら夜を徹して戦いつづける米軍の要塞《ようさい》で、勇ましくはためきつづける星条旗を見て感動したアメリカ人弁護士のフランシス・スコット・キーが、それを詞にしたためた。そしてジョン・スタフォード・スミスが曲をつけて楽曲としての体裁が完成した。国歌として承認されるのは、スコット・キーが星条旗に感動してから百年以上ものちの一九三一年三月三日、日本では満州事変が起きた年のことである。  本来、国歌とは支配者からの独立という、民族の誇りとなる出来事を背景に作られる場合が圧倒的に多い。アメリカにしても、すでに一七七六年七月四日に独立宣言を採択していたものの軍事力はきわめて弱かった。そんな新生国家アメリカに対し、英仏戦争中のイギリスは、アメリカ商船に対する臨検などで旧植民地として見下げた高圧的な態度をとったため、米国民の反英感情が一気に噴き出した。そして、一八一二年にイギリスに対して宣戦布告を行なったのだ。  つまり、英米戦争とは弱い立場のアメリカが圧倒的に強い支配者イギリスに対して立ち上がった戦争であり、そのさなかに翻る星条旗は、まさしく小が大に敢然と立ち向かう勇気の象徴であった。だからこそ、歌詞が戦場そのものを織り込んだものであっても、後世の国民は誇らしげに歌うのだ。  合衆国国歌の歌詞を見た日本人がその内容が戦争そのものであることに驚き、「血なまぐさくて、ちょっと」などと評するのは、根本的に歴史の背景を知らない表層的な捉《とら》え方にすぎない。  一方、弱者という立場から支配者を打破して独立するというプロセスを持たない日本は、国民が共有できる誇らしい勝利というものを国旗や国歌の背景に持たない。それが現在の「日の丸」や「君が代」に対する反発よりも圧倒的に多い無関心派の存在という醒めた状況を作りあげている。国旗・国歌問題で賛成反対と目の色を変え、近隣諸国からの介入まで招くような激論を闘わせているのは、じつは日本国民の少数派にすぎない。どちらかの立場を鮮明にしている新聞社ですら、いったい記者のどこまでがイデオロギー的な主張を明確に持っているか、怪しいものである。  希美からしてみれば「日の丸」や「君が代」がどうかという問題はさておいて、国旗や国歌に愛着と敬意を表明できるアメリカ国民が羨《うらや》ましくてならなかった。ただ、さすがに国歌に対する無関心国からきた国民だけあって、そんな感心をしながらも、希美と理奈は重大なマナー違反を犯している自分たちに気づいていなかった。頭にかぶっているシアトル・マリナーズのキャップを取っていないのだ。  周囲のアメリカ国民、またそれ以外の外国人も含めて誰もが例外なく、かぶっていた帽子を取っているにもかかわらず、その状況にふたりとも気づいていなかった。常識のあるなしではない。国歌のために起立脱帽する習慣が日常的にあるか、ないかの差なのだ。  真後ろにいた中年女性の二人づれが、聞こえよがしの非難を口にしていたのだが、その言葉は音声として耳に入っても、意味のある言語として希美たちの脳を刺激したわけではなかった。それどころか理奈などは、液晶モニターを見ながら、ビデオカメラをゆっくり右から左へとパンさせ、合衆国国歌を格好のBGMとして、プレイボール直前のスタジアムの全貌《ぜんぼう》を収めることに集中していた。  やがて国歌の独唱が終わり、後ろにいる観客の冷たい視線が自分たちに注がれているとも知らず、希美と理奈は野球帽をかぶったまま腰を下ろした。すると、軽部が両手に紙コップ入りのコーラをひとつずつ持って戻ってきた。 「ほら、理奈」 「あ、ありがとう」  と、軽部の手からコーラを受け取るときも、理奈はビデオカメラを片手で回しつづけていた。それに気づいて、希美はいやな感じがした。記念に大リーグの試合をビデオに収めておきたいというのは言い訳で、じつはいつ現れるかわからない野木博之を撮影しようとしているのではないか。そんな気がしてならなかった。 「希美も、ほら」  希美の顔の前に、もうひとつの紙コップが突き出された。サングラスをかけた彼女の目には、コーラは真っ黒な液体に見えた。 「なんで? 私はいらないと言ったのに」 「そんなこと言わないで、少し飲めばいいじゃないか。残りはぼくが飲むから」 「いらない」 「コーラも喉《のど》を通らない心境なのか」  仕方なしにコップを引っ込めた軽部は、自分の席に腰を下ろしながら、皮肉っぽい口調でつけ加えた。 「緊張で喉がカラカラだと思ったんだけどね」  希美は急に腹が立って、皮肉には皮肉で答えようとして、いきなり軽部の手からコーラを奪った。そして言った。 「毒が入っているような気がしたから、飲みたくなかったのよ」  とっさに出たセリフだった。希美自身、なぜそんな言い回しが出たのかわからなかった。サングラス越しに見たコーラの色が異様にどす黒く感じられたからなのか。それとも、無意識にそんなことを自分に口走らせる別の事情がどこかにあったのか。 「なんだって?」  さすがに軽部は不快そうな声を出した。心の窓である彼の目は、サングラスの濃いレンズに隠れてその表情がわからない。しかし、額の皮膚が吊《つ》り上がって横じわが数本浮かび上がって、またスッと消えたのを希美は見た。 「シャレになんないことを言うなよ」 「昔の恋人にまた心変わりをしてしまうかもしれない永峯希美が、急に憎らしくなった。そんなことはない? だから殺したい」 「ばーか、おまえ、なに言うんだよ。推理小説の読み過ぎだぞ、おまえ」  軽部の口調は明らかにムキになっていた。動揺しているようにも思えた。長いつきあいで、希美は知っていた。やましいことを突っ込まれると、おまえという呼び方を連発することを。  軽部は引きつった笑いを浮かべながら、希美の向こうにいる理奈を覗《のぞ》き込むようにして言った。 「おい、理奈、どうにかしてくれよ。希美、ピリピリしちゃって、たまんないよ」 「とりあえず、あたしのはちょっとぬるめだけど毒は入ってませんでした〜」  理奈は、左手のコーラを持ち上げて、チロッと前歯をのぞかせ笑った。 「でも、こっちには入っているかもしれない」  そう言うと、希美は軽部の手から奪ったコーラを、ぐいとあおった。一気に飲み下さず、口の中に含んだところで、いったん止めた。  やや気が抜けている感じはしたが、格別妙な味はしなかった。考えてみればあたりまえのことである。無意識下で毒味のような気持ちになっていたことに気づくと、たしかに私はピリピリしているかもしれない、と希美は内心で認めながら、ごくんと飲み下した。 「どうだ?」  希美の顔をサングラス越しにじっと見つめて、軽部がきいた。 「毒が回って死にそうかい」 「なワケないでしょ」  コーラを口に含んだ直後、何パーセントかはその可能性を疑った心の動きを悟られまいとして、希美はぶっきらぼうに言って、まだたっぷりと焦げ茶色の液体が入った紙コップを軽部に返した。  私もサングラスをしていてよかったわ、と希美は思った。もしも、まともに瞳《ひとみ》を軽部にさらしていたら、シアトルにきてから急に揺らぎはじめた自分の心を見透かされていたかもしれない、という気がした。  グラウンドではホームチームのシアトル・マリナーズのメンバーが守備位置についていた。先発投手はマウンドで投球練習をはじめ、野手たちはボールを回しあって肩慣らしをしていた。  バックスクリーンのスコアボードには、両チームの先発メンバーの名前が黄色く輝いている。ボードの真下にも観戦スタンドがあり、その後ろには雲ひとつない青い空が広がっていた。午後の七時を回っても、依然として風景は昼と少しも変わらない。自然の太陽光と人工照明の光がミックスした明るいグラウンドは、緑の芝が絵の具で描いたような鮮やかさを放っていた。  先攻のアナハイム・エンゼルスの先頭打者がバッターボックスに入り、主審がプレイボールを宣言した。時刻は予定どおり、七時五分だった。  ちょうどそのとき、さきほど希美たちの前を通って通路のほうへ出ていった白人の老人がまた戻ってきた。軽部と同じように、両手に自分のぶんと妻のぶんのコーラを持ち、さらに右の小脇《こわき》にはポテトチップスの袋を挟《はさ》んでいた。  老人から愛想よく微笑《ほほえ》みかけられたので、希美たち三人は、彼を通すためにまた立った。が、希美は老人の動作を見ながら危なっかしいな、と思っていた。両手の紙コップの中で、茶色の液体が老人の歩みにつれて大きく波打っていた。 (まずいなあ、こぼされちゃうかもしれない)  と、懸念していたとおり、老人の右脇に抱えていたポテトチップスの袋がずり落ちそうになり、それを強く挟み込もうとした拍子に、彼の右手に持っていた紙コップが大きく揺れた。そして中身が希美の胸めがけて飛び出してきた。  反射的に希美はジーンズのジャケットの前を手でカバーした。そこに冷たい茶色の液体がふりかかってきた。  オー、ソーリーと老人が叫び、理奈の右隣にいた彼の老妻も、すまなそうに希美に向かって詫《わ》びの言葉を述べた。幸いジーンズの生地なので染みは目立たなかったし、下に着ていた純白のTシャツは無事だったので、希美はオーケー、オーケーとにっこり笑いながら、ハンカチで濡《ぬ》れた右手を拭《ふ》いた。  まさか、そのなにげないシーンに、このあとにつづく惨劇の真相を解くカギが隠されていたとも知らず、永峯希美はゆっくりと腰を下ろした。  こぼされたコーラの感触など、もう十秒後にはすっかり頭から消え去っていた。グラウンドでは一回表のエンゼルスの攻撃がはじまっていたが、そんなゲーム展開もハナから関心がなかった。いまの希美の脳裏は、いったいいつ、どの方向から、かつての恋人が現れるのだろうかと、そのことでいっぱいだった。  すると——   シアトルの魔神  突然その言葉が、希美の大脳に張られたスクリーンに大きな字幕として浮かび上がった。  希美の意識だけに見えるその巨大文字は、彼女の頭から飛び出して、試合のはじまっているグラウンドへ飛んでゆき、三塁側から一塁側へといっぱいに広がった。つづいてセンター奥のスコアボードに電飾文字として「シアトルの魔神」の文字が輝いた。さらにそこから天へ向かって上昇し、午後七時すぎの青空を覆い尽くした。  が、それも一瞬だけで、すぐさま魔法のランプに吸い込まれる巨人のごとく、ふたたび希美の頭の中に呼び戻されて、煙のように消滅した。  極度の緊張と興奮からくる幻覚だった。  我に返った希美は、いま自分の心が勝手にイメージを暴走させた「シアトルの魔神」というその言葉をどこで聞いたのか、必死に思い起こそうとした。そして、思い出した。シアトル・タコマ国際空港から、軽部の運転するレンタカーでシアトル市内へと入ってきたときに、後部座席に座っていた大貫理奈がつぶやいた言葉だ。  シアトルに根を下ろした野木博之が、地元の人間からそう呼ばれている、と理奈は言った。なぜならば、ふつうの人間とは違う感覚の持ち主だから、と。  それはいったいどういう意味なのか、希美は、まだ理奈に深く突っ込んでいなかった。当人と再会を果たす前に、理奈にそのことを聞こうと思った、まさにその瞬間—— 「希美」  軽部ではない男の声が、斜め後ろのほうからかかった。忘れもしない、絶対に忘れることのできない男の声が——  左隣にいた軽部が、コップに残ったコーラを揺らしながら、勢いよくふり返ったのが希美の目に入った。  右隣にいた理奈も、すぐさまふり向こうとした。ビデオカメラを構えたまま。 「やめて」  希美は、声がしたほうを見る前に、まず理奈を制した。 「ビデオを止めて」 「どうしてですかあ」 「止めるのよ!」  ほとんど叫び声に近い怒鳴り方をしたため、前の席にいたスキンヘッドの黒人が眉《まゆ》をひそめてふり返った。 「理奈、遊び半分でやらないで」  声を圧《お》し殺して命じながら、希美はビデオカメラを構えた理奈の右手を強く押さえた。  その勢いにひるんで、理奈は停止ボタンを押した。それだけでは気が済まず、希美はそのビデオカメラを自分の手に奪った。  それからゆっくりと後ろをふり返った。 [#改ページ]    6 無死満塁の悲劇  音もなく降りつづける雪を窓越しに眺めながら、烏丸ひろみは自宅マンションの部屋で永峯希美がやってくるのを待っていた。  約束は昼の二時すぎだったが、すでにその時刻を三十分回っている。とくに希美から連絡はなかったが、突然の大雪で都心の交通機関は混乱に陥っていることがテレビのニュースでもたびたび報じられていたから、たぶんそのせいで遅れているのだろうと、ひろみは考えていた。  なにしろ東京は雪に弱い。慢性的な暖冬に馴《な》らされているせいもあって、市民も行政もまともに大雪対策を考える人間などいなかったから、いざ予想外の降雪に見舞われると、北海道や東北、北陸などではあたりまえの状況が、この大都会ではパニックになる。さきほどもマンション裏手にある屋根なしの駐車場で、車がスリップしてどうにもならなくなって大騒ぎしている様子が眺められた。  年が変わって一月に入ってからというもの、予想外の寒波が波状的に日本を襲い、こうした光景を、ひろみはもう何度も見せられている気がした。東京で雪を見飽きるというのも珍しいことだったが、テレビのほうではどこのチャンネルでもニュースアナやワイドショーの司会者たちが、朝から飽きもせずに興奮気味に都会の大雪を伝えていた。  寒さですぐに曇ってしまう窓ガラスから離れると、烏丸ひろみはリモコンスイッチをテレビに向けて、午後のワイドショーからビデオに切り替えた。  再生ボタンを押すと、画面いっぱいに大リーグの球場が映し出された。いまの東京の季節とは対照的に、澄み切った初夏の青空が広がっている風景だ。ひろみ自身、同じそのスタンドでゲームを見たこともあるセーフコ球場。観客の服装もTシャツやタンクトップにショートパンツというスタイルが多い。  日本人の感覚からいえば、まだ長袖《ながそで》でも間に合うような気候でも、アメリカ人はとにかくレジャーの場になると、できるかぎり肌を露出しようとする。ひろみがこの球場で観戦したのは、六月二十六日に撮られたこのビデオ映像よりもさらに一カ月ほど前で、まだ風の冷たさを感じる時期ではあったが、それでもみんな平気で肌を出していた。皮下脂肪の厚さの違いなのかもしれない、とひろみは半分あきれながら感心していた記憶がある。  画面では、アナハイム・エンゼルスが守備についていた。そして地元シアトル・マリナーズの攻撃中。  レンズが広角から望遠へとズームアップされて、スコアボードの数字を追いかけた。エンゼルスが初回に二点を入れて2—0でリードしていることが示されている。  2・0・0・0・0と、得点を示す数字が五つ入っていて、現在は三回の裏。  スコアボードに時刻表示はない。しかし、デジタルビデオに記録された時刻を表示するモードにしてあったから、画面の片隅に数字が出ていた。11:50。  ただしそれは日本時間のまま変えていないものだったから、シアトルの現地時間に直せば、サマータイムなので十六時間の時差を引いて19:50。すなわち午後七時五十分であることが計算できた。この時間でもまだ空は昼間の青さを保っていた。  ふたたびレンズがズームアウトされ、球場全体の様子が映し出された。  いま、マリナーズの白いユニフォームを着た選手が一塁、二塁、三塁とすべての塁を埋め尽くしている。そしてアウトカウントはゼロ。つまり、無死満塁である。二点差を一気に追いついてひっくり返す好機とあって、スタンドのマリナーズ・ファンは総立ちになっていた。球場はファンの大歓声で沸きに沸いているはずである。  はずである、というのは、いまひろみは意図的にビデオの音を消しているからだった。そこに記録された映像に集中したかったためである。  長打が出れば一打逆転というチャンスでバッターボックスに立った体格のいい黒人選手は、まず一球目、内角高めにきた完全なボール球を空振りした。総立ちのファンのブーイングが聞こえてきそうな空振りだった。二球目は同じコースにきたが、こんどは見送ってカウント1—1。三球目、四球目とさらにボールがつづいて、大リーグ式に表現すればスリーボール・ワンストライクのカウントになった。  日本の野球だったら、ここは押し出し狙《ねら》いで一球見送るという作戦が浮かぶところだが、大リーグの野球に消極的な待ちの発想はない。五球目、もし見逃せばボールだったかもしれないという真ん中高めの球をバッターは強振したが、あたりそこねて一塁側のスタンドへ飛び込むファウルになった。  そして迎えた六球目。総立ちのファンが固唾《かたず》を呑《の》んでつぎの一球に集中しているとき、ビデオカメラの映像は、突然、左に振れた。  フレームの中に、撮影者である大貫理奈の隣に座っている永峯希美と、さらにその隣の席にいる軽部勉の姿が映った。野球帽をかぶりサングラスをかけたふたりも、同じようにグラウンドではなく左のほうをふり返ったため、両者の表情はわからない。  つまり、並んでいた三人が試合の進行とは関係なく、階段通路のほうを同時にふり返ったことがわかる。ここでビデオの音を出せば、「エクスキューズ・ミー・ミス」と呼びかけているボーイソプラノの声が聞こえる。それもかなり大きな声である。だから三人はその英語に反応した。  声の主に向けられた理奈のビデオカメラは、ひとりの少年の姿を捉《とら》えていた。チェック柄の長袖ワークシャツを肘《ひじ》のあたりまでまくり上げ、下はベージュのチノパンを穿《は》いていた。赤毛でそばかすだらけの白人少年で、すでに彼が空港近くのタコマ市に住む十六歳の高校生であることは、現在のひろみはデータとしてわかっている。  だが、当時の三人にとってはきわめて唐突な出現であったはずである。「|シアトルの魔神《ヽヽヽヽヽヽヽ》」|との再会を終えて放心状態となっていた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》永峯希美にしても、まさか見ず知らずの少年が、人格的に変貌《へんぼう》していた野木博之の登場以上に自分の人生を激変させることになるなど、想像もできなかっただろう。  その少年は、片手に無地の紙袋を抱えていた。コンビニなどで買った果物かサンドイッチでも入っていそうな平凡な茶色い紙袋だ。しかし、その紙袋に入っていたのは食べ物ではなかった。  ビデオに記録されたこの場面をこれまで何度も見返してきた烏丸ひろみは、少年の目が「飛んで」いる様子がよくわかった。だが、当時の希美には、そこまでわかるはずもない。  少年は、かすかに唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。笑顔なのか、緊張で引きつっていたのかわからない。次の瞬間、彼の持っていた紙袋が白煙とともに破裂し、煙の奥に銃口が見えた。  同時にビデオの画像がすっ飛んだ。  総立ちの観客が画面下に猛スピードでもぐり込み、やや光を失いかけた午後八時前の青空がいっぱいに広がったかと思うと、白い雲が回転し、ふたたび総立ちの観客が画面に飛び込んできた。ただし、さかさまに。  理奈の右隣にいた白人の老夫妻の驚愕《きようがく》する表情も逆さに写った。夫の顔には、トマトを砕いたような赤い飛沫《ひまつ》が散っていた。その後ろで、やはり画面上で逆立ちとなった老妻が絶叫している。音を消しているから、かえって強烈な悲鳴が想像できた。  そのあとビデオ映像は何度か大きくブレた。理奈の赤いブラウスが写り、それが黒革のミニスカートに変わり、つづいて男物のグレイのパンツ、それから白のスニーカーがぼやけながら飛び込んできたあと、最後に暗いグレイ一色の画面となった。  理奈の手を離れたビデオカメラが大きく宙を舞ってから理奈自身の肩先に落ち、そこから彼女の膝《ひざ》へ、さらに隣の老人のズボンをかすめてコンクリートの床に落ちたのである。床に落ちる直前に、老人が穿いていたスニーカーに当たったことで衝撃が和らげられ、機械が壊れることは免れていた。そのため、レンズを床に接触させたまま、録画はつづけられていた。  その灰色の画面の斜め上から、黒っぽい液体が流れてきた。それはこぼれたコーラのようにも思えたが、やがて量が増すに連れて、光量不足の画面でもはっきりと物質の色合いが見てとれるようになった。  血だった。大量の血液が床を流れて、ビデオカメラの画角の中に入ってきたのだ。  やがて画面は赤黒い血でいっぱいとなり、さらにそれが盛り上がってレンズに付着して、より鮮やかな赤い点が中央に現れた。そして、すぐにその点が小さな円になり、小さな円があっというまに直径を広げながら大きな赤い円に拡大して、烏丸ひろみのリビングルームに置かれた32インチの大型テレビ画面をいっぱいに血の色で埋め尽くした。  時刻表示のカウンターは止まっていない。録画はつづいているのだ。しかし、もはや映像は変化のしようがなかった。突然、拳銃《けんじゆう》で撃たれた人物の身体から大量に流れ出た血が、ビデオカメラのレンズを完全に覆ってしまったからである——  重苦しいため息をついたあと、烏丸ひろみはまたリモコンをテレビに向けてビデオを止めた。そして、画面をテレビのワイドショーに切り替えた。  音を消したままなので、司会者がしゃべっている言葉は聞こえないが、離婚が噂《うわさ》されている芸能人カップルの映像が出たから、おおよその内容は想像できた。そういう平和な騒動の画面にでもしておかないと、息が詰まりそうだった。  気分を変えるために、ひろみは窓のほうに目をやったが、さきほど手で拭《ぬぐ》っておいた窓ガラスはもう完全に曇っていて、外の雪はまったく見えなくなっていた。  ひろみは、つぎにオーディオラックの上に置いてあった小型のMDレコーダーを取り上げ、イヤホンを耳に差して、あらかじめ入れてあったディスクを再生した。それは、先月、十二月のなかばに、初めて永峯希美がひろみのところへやってきたときに、彼女の了解をとって録音した会話の記録である。  希美はエッセイスト烏丸ひろみの大ファンだと語った。ひろみが書くエッセイを読むために、掲載されている雑誌は欠かさず買っていたし、ひろみが一冊だけ本の形で出している文庫書き下ろしのエッセイ集は、発売と同時に十冊もまとめ買いしたという。自分用に一冊と、残りの九冊は知り合いに配るために。ひろみの感性を自分の親しい人間にも知ってほしかったので、親戚《しんせき》縁者でもないのに処女出版となった文庫を周りに大宣伝した。それぐらい、烏丸ひろみという著者が好きだったと、希美はひろみ自身の前で少し気恥ずかしそうに語った。  じつは、希美よりもひろみのほうが少しだけ若いのだ。しかし、ひろみの前に出た希美は、自分のほうが年下のように謙虚に、控えめにふるまった。たしかに人生経験という点では、警視庁捜査一課で修羅場をくぐってきたひろみのほうが、密度の濃い体験を重ねてきているかもしれなかった。  昨年六月二十六日にシアトルの野球場で起きた悲劇的な事件の報道は、もちろんひろみも知っていた。その当事者である希美が、半年が経とうとしてもなお精神的打撃から立ち直れず、エッセイの一ファンという立場でしかなかったのに救いを求めてやってきたとき、ひろみは彼女がたしかにメンタルな点で崖《がけ》っぷちに立たされていることを感じ取った。先月、十二月のことだった。  ひろみは希美と同じように、シアトルのセーフコ球場で大リーグの試合を観た経験があるし、希美と同じようにオリンピック国立公園を訪れ、しかもレイク・クレセントのあのロッジにも泊まっていた。だから話は合った。警視庁捜査一課での職歴も、希美にとっては大いに心強く感じられるようだった。そして彼女は、ひろみに向かってこう言った。 「私を癒《いや》してください、ひろみさん」と——  事件に遭う前の永峯希美は、きっとてきぱきとした才気|溢《あふ》れる女性社員だったのだろうとひろみは推測した。それは顔立ちから自然と感じ取れるものだった。それに化粧品メーカーの参謀本部ともいうべきセクションに働いていただけあって、メイクや服の着こなしのセンスは素晴らしかった。  ただ、いまはその薄化粧の下に、疲労、困惑、混乱、憔悴《しようすい》、そして恐怖といった色合いが幾重にも層を成して蓄積されていることが読みとれた。  彼女は事件後、勤務先に一度も復帰しないまま七月末付けで依願退職の手続きをとっていた。そして母親の実家がある宇治《うじ》の南、京都府|城陽市《じようようし》ののどかな田園地帯で静養をつづけていた。  だが、事件は表向きの解決はついたものの、引き裂かれた心の修復方法を探ることができず、最後のよりどころをひろみに求めてきたのだ。  いま、烏丸ひろみは永峯希美との最初の会談を記録したテープを、その途中の部分から再生しはじめていた。三人でシアトルへ行くことになったいきさつと、現地での軽部勉の冷たい態度によって、現在の恋人から過去の恋人へ心が揺れ動きはじめた状況などが語られたあとの部分である。       *   *   * 「それで、試合がはじまってすぐに、理奈さんが打ち合わせしておいたとおり、野木さんがあなたの前に現れたわけですね」 「はい」 「どうでした、八年ぶりに——七年ぶりかしら——会ってみた彼の感想は」 「ひとことで言えば、ぜんぜん変わっていませんでした」  希美の声が小刻みに震えている。 「恋人だったころとイメージが少しも変わっていなかったんですね」 「そうです。真っ白な半袖《はんそで》のポロシャツにクリーム色のショートパンツを穿《は》いていて、腕も脚もよく日焼けしていました。白っぽい服装だったから、よけいにそれが目立っていました」  烏丸ひろみは、希美の勤務先が発行しているPR誌『かがやき』に掲載された野木博之の著者近影は見ている。だが、セーフコ球場に現れた野木の姿は知らない。その直前で、希美が理奈のビデオ撮影を制止させたからである。だが、希美の語る印象は、PR誌の著者近影から受けるイメージとほぼ一致していた。まさにタレントと間違えられそうなハンサムな男だった。 「もしかして、レイク・クレセントのことを思い出しました?」 「もちろん、すぐに」 「そう……」 「正直な自分の気持ちをお話しすれば、胸がときめきました。いえ、そんな甘いものじゃなくて、爆発しそうな感じでした、心臓も頭も。それと同時に、ああ、やっぱり野木さんと別れたのは間違いだったんだ、という後悔がワーッという感じで押し寄せてきたんです」 「じゃあ、いまの彼と昔の彼が同時に居合わせるという状況は、軽部さんにとっては対決の場のつもりだったかもしれないけれど、希美さんの気持ち的には逆効果になりつつあった、ということですね」 「そうです」 「軽部さんの反応はどうでした?」 「わかりません。彼も野木さんのほうを見ていましたから、表情は読みとれなかったんです」 「理奈さんは?」 「彼女に対しては、私のほうが背中を向ける格好になっていましたから、やっぱり反応は見ていません」 「でも、さきほど聞いたお話では、野木さんが現れたら理奈さんが席を空けることになっていたんじゃないんですか」 「そうです」 「そして、あなたと軽部さんと野木さんの三人で、いろいろ話し合うことになっていたんでしょう。PR誌にモデル小説を書いた真意とか、いまはあなたのことをどう思っているのか、とか、そういう疑問を野木さんにぶつける予定だったんでしょう。希美さんが、というよりも、軽部さんが」 「ええ」 「その件に関しては理奈さんは部外者だった。彼女はあくまで小説の担当窓口であるだけだから」 「はい」 「でも、理奈さんはすぐには席を立たなかった」 「それは、たぶん野木さんの行動をしばらく見ていたかったんだと思います。理奈は、こういう言い方は彼女に申し訳ないんですけど、ものすごく好奇心の旺盛《おうせい》な子で……というか……ええ、まあ、そうですね、そういう子でしたから、しばらくは私たちのやりとりを見ていたかったんだと思います。とくに私の反応を」  希美の遠慮がちな言葉の中に、会社の後輩である大貫理奈に対して、必ずしもよい印象を抱いていない含みがはっきり現れていた。 「それで、野木さんがきて、どうなりました」 「私、期待、して、いました」  希美の言葉が途切れとぎれになった。 「野木さんが、ツトムに対して強い態度に出てくれることを内心で期待していました」 「具体的にはどういう行動に出てほしいと思ったんですか」 「ツトムに向かって、希美はぼくのものだと主張してくれるとか、強引に私の手を引っぱって球場から連れ出してくれるとか——なにかの映画みたいですね」  そこの部分で、希美の声が哀《かな》しげに笑った。 「でも、私、ほんとうにそうなってくれることを願っていたんです」 「シアトルに着くまでは、まるで反対の気持ちだったんでしょう」 「そうです。そもそもシアトルに行くことじたい猛反対だったんです。私にはツトムしかいませんでした。彼以外の男性なんて考えられなかったから、過去の出来事に煩《わずら》わされたくなかったんです。実際、あの小説を目にするまでは、八年前の約束なんてすっかり忘れていましたし」 「だけど、シアトルにきてみたら、いつのまにか気持ちが変わりはじめていた」 「そんなふうになるなんて、想像もしていませんでした」 「どうしてそうなったんですか」 「ですから、野木さんの小説に怒ったツトムが、私に対してあまりにも冷たくて邪険な態度をとるので、しだいに彼の欠点ばかりが——それ、わかっていたんですけど——欠点ばかりが目につくようになって。そしてそれとは逆に、八年ぶりにきたシアトルの街を歩いているうちに、野木さんとの楽しい想い出ばかり蘇《よみがえ》ってきて……」  希美は涙声になってきた。 「きっと私、どうかしてたんです。気持ちがヘンになってきた自分に気づいたところで、ぜんぶ予定をキャンセルすべきだったんです。球場へ行く前の日に思い直して、すぐに飛行機を変更して日本に戻るべきだったんです。そうすればこんなことは起こらなかったし、みんないままでと同じ平和な暮らしができていた。私もツトムも理奈も、きっといまも会社で忙しく働いていたでしょうし、私たちは結婚式場も決めて、早ければ会社のみんなに招待状も送っているころだったかもしれません。  でも、私は夢に動かされてしまったんです。野木さんとツトムが私をとりあって、そして、ほんとうの愛情を私に注いでくれる人がどちらであるかに気づく……まるで恋愛小説みたいなストーリーを夢みてしまったんです。それで私はあの日、セーフコ球場へ向かいました。映画の主役にでもなったような気持ちで。そうしたら……」  希美は言葉を詰まらせた。 「野木さんは、変わっていなかったのは見た目だけで、心は別人になっていたし、おまけにそのあと……」 「そのあとの悲劇については、ちょっと置いておきましょう」  ひろみがさえぎった。 「まずは野木さんのことを聞かせてください。心が別人になっていたというのは?」 「野木さんは、緊張で何も言えなくなっている私に一枚の紙を渡しました。そこには彼の直筆でこう書いてあったんです。……あ、コピーを持ってきましたから、それを読んでみてください」  MDの音声は、そこでしばらくガサガサという雑音がつづいた。希美がバッグから一枚の紙を取り出すノイズである。  セーフコ球場での事件にまつわる証拠品は、シアトル市警が直後にすべて回収していたが、事件が意外な形で落着したのち、当事者である希美は関係資料の複製を入手していた。ひとつは野木が手渡したメッセージであり、もうひとつが大貫理奈が断続的に撮影した球場でのビデオテープである。  烏丸ひろみが見せられたコピーは、整然とした筆跡がびっしりと並べられた手紙だった。 ≪話し合いは無意味。ぼくは希美を忘れない。話し合いで忘れさせようとしても、それは無理。  まず、あの小説をきみの会社に売り込んだ理由を述べておく。もちろん、野木博之の存在を思い出してもらうためだ。どうやらきみは、ぼくのことなど忘れてほかの男と結婚するらしい。当然、レイク・クレセントの約束など守る気はないよね。いや、それどころか、すっかり失念しているといったほうが正解かもしれない。だから思い出させてあげたわけだ。  あの小説の中で希美という女性が、再会の日まで四年を残して死んだことになっているのは、それなりに意味がある。ぼくの中で、あの約束をいったん破棄することが必要だったからだ。いまから思えば、八年後にここにこようなどという曖昧《あいまい》な表現のプロポーズをしたのが大間違いだった。だから、あの約束はなかったことにしようと決めた。そのために、ぼくは小説の中で決着をつけた。  さて、これからが仕切り直しだ。今回ははっきり言おう。希美、ぼくはきみのことが忘れられない。あきらめろといっても、それは不可能だ。軽部という男にきみは渡さない。きみが結婚するのは軽部でなく、ぼくでなければいけない。そのことはきみだってわかっているはずだ。軽部は男どうしの対決だと息巻いて日本からやってきたようだが、彼と話し合いをする必要がどこにあるのだろうか。ぼくは見ず知らずの男とケンカをするような時間のムダはしたくない。きみがすべてを決めればいいことなんだから。  なお、ぼくは当地で「シアトルの魔神」と呼ばれている。その理由を述べておく。べつに「魔神」というのは、日本からやってきた優秀なるリリーフピッチャーのニックネーム「大魔神」にあやかったわけではない。どんな人間の心にも「魔」と「神」が共存している。魔だけの人間はいないし、神だけの人間もいない。しかし、日本にいるときのぼくは、できるかぎり魔の部分を封じ込め、善良なる神を前に押し出そうとしていた。けれども、そういう偽善的な本音の隠し方はやめることにした。  自己主張の国であるアメリカに渡ってから、ぼくはもっと自分の意思をストレートに出して生きるように考えを変えたんだ。すなわち、自分の味方には神になる。しかし、自分を裏切ったり敵対するやつには魔に——魔物に、悪魔になろう、と決めた。その変わり身がすさまじすぎるものだから、ぼくは周囲の人間から「シアトルの魔神」と呼ばれ、恐れられているんだよ。まるで、「魔」と「神」の二面性を持つ二重人格者のようにね。覚えているかい、希美。いつだったか土砂降りの日にきみを送っていったとき、電柱の陰に捨てられていた子犬のこと。希美を中心に世界を回すと、哀れな子犬もジャマになるんだ。  ただし希美、きみの前では、ぼくはずっと神でいたいと思っている。きみもぼくにとっての女神なのだから。  さあ、決めてくれ。しょうもない男は捨てろ。そしてぼくといっしょに輝かしい未来を歩んでほしい≫  烏丸ひろみと永峯希美の対話を記録したMDディスクは、しばらくはほとんど無音状態で進んでいた。ひろみがその手紙を何度も読み返していたからである。そして、長い沈黙ののちに、ひろみが低い声で口を開いた。 「恐かったでしょう、この文面を読んだときは」 「恐いというよりも、まず信じられませんでした。私の知っている野木さんではないと思いました」  硬い希美の声が答える。 「仮にこの手紙を第三者から手渡されていたら、どんなに筆跡に見覚えがあっても、にせものだと思ったでしょう。野木さんがこんなこと書くわけないと」 「でも、その当人が目の前にいて、直接あなたに手渡してきたんですものね」 「そうなんです。だから私、あまりのショックでめまいがして」 「思い描いていた再会のロマンが、一気に崩れてしまった」 「そうです」  希美の鼻をすする音がした。 「あなたがスタジアムの座席でその手紙を読んでいる間、ほかのふたりはどうしていたんですか。軽部さんと理奈さんは」 「わかりません。ふたりの視線を気にする余裕もありませんでした」 「それで?」 「読み終えた私はこう言いました。そのせりふだけは、いまもはっきり覚えています。ウソでしょう、と」 「そう言うしかないですよね」 「すると野木さんはこう答えたんです。その手紙には、ぼくはひとつもウソは書いていない、と」 「どんな顔で言ったんですか」 「無表情でした」 「無表情?」 「はい」 「でも、なにかの感情を読みとることはできなかったんですか」 「ぜんぜん」 「それから?」 「きょうはわざわざ日本からきてくれた人たちの顔も立ててあげようと思って、ぼくはここへ足を運んだ。でも、今後は希美とぼくとの一対一で話を進めることにしよう——野木さんはそれだけ言うと、さっさと立ち去ろうとしたんです」 「じゃ、その場でじっくり話し合おうとするつもりは、野木さんにはまったくなかったんですね」 「ですから、ツトムが急いで彼を引き留めようとしました。ちょっと待て、何のためにぼくらは日本からきていると思っているんだ、と」 「それはそうですよね。大リーグの試合を観にきたわけじゃないんだから」 「すると、呼び止められた野木さんが私たちのそばにもう一度戻ってきて、こう言ったんです。ぼくに拳銃《けんじゆう》を使わせないでくれ、と。日本語がわかる人間が周りにいないと思って、ずいぶん大きな声で言ったので、また私は心臓が止まりそうになりました」 「拳銃を見せながらそう言ったんですか」 「いいえ」 「彼はなにかバッグや袋を持っていましたか」 「手ぶらです」 「手ぶらで、ポロシャツにショートパンツという格好だった」 「はい」 「そのスタイルでは、どこかに拳銃を隠し持っているのは難しいのでは」 「冷静に考えればそうかもしれませんけど、場所がアメリカですから」 「彼が拳銃を身につけているのは、じゅうぶんにありうることだと信じてしまったんですね」 「はい。それでケンカするつもりできたツトムも、それ以上何も言えなくなったみたいで……。そして野木さんは、また私たちに背中を向けて階段をゆっくりと上って去っていきました」  永峯希美は、まずセーフコ球場で起きた物語の第一段階を話し終えた。彼女にとっては、それだけでもじゅうぶんに衝撃的展開だったはずだが、ドラマはまだ終わらなかったのだ。 「しばらくの間、私は……」  希美が、力が抜けてしまったような声で話をつづけた。 「野木さんから渡された手紙を握りしめたまま、しゃべることも動くこともできずに座っていました。グラウンドで野球のゲームが進行しているのが目に入っても、歓声が耳に飛び込んできても、どこか遠くでついているテレビ放送のようにしか感じられませんでした。頭の中がショックで空っぽだったんです。ツトムも前を向いたまま、私に話しかけようともしませんでした。理奈だけはどこか醒《さ》めていたみたいで、私の膝《ひざ》から自分のビデオを取り返して、試合をまた撮影しはじめていましたけど」 「誰かから、もう帰ろうとは言い出さなかったんですか。試合なんかどうでもよかったわけでしょうから」  ひろみが当然の質問をした。 「何をする気力も出なかった、というのが正直なところです。あの事件が起きなければ、試合が終わるまで席に座り込んでいたかもしれません。それぐらい野木さんの変わり方はひどいショックでした。シアトルの魔神だなんて……」 「そして、ゲームのほうは三回の裏まで進行したんですね」  ひろみが、すでにわかっている客観的事実を補足した。 「いつのまにかノーアウト満塁という、ゲームとしては最高の盛り上がりになっていた。プレイボールから四十五分。そしてそのとき、希美さんが予想もしなかったことが起きてしまった」 「はい」 「思い出したくないでしょうけれど、その場面をふり返ってもらえますか」 「さっきまで野木さんが立っていた階段通路のところで、少年の声がしたのは、ボーッとしていた私の耳にもなんとなく聞こえていました。『エクスキューズ・ミー』という呼びかけが。でも、こっちに話しかけているのではないだろうと思っていたら、もう一回、もっとはっきり『エクスキューズ・ミー・ミス』と呼ばれたので、そっちをふり向きました。少年が立っていました。少年といっても、背は私よりもずっと高かったです。赤毛でそばかすのある子で、その少年が、スーパーとかコンビニで商品を入れるのに使うような、わりあい粗末な茶色っぽい素材の紙袋を抱えていたんです」  野木の変貌《へんぼう》ぶりに涙ぐんでいた希美の声は、そこでまた恐怖に震えだした。 「さっきのショックで真っ白になっている私には、彼の様子は、私たちの並びの席へ着きたいから通してくれというふうにしか見えませんでした。ツトムもたぶん、そう思ったんでしょう。彼が腰を浮かせかけたとき、突然……」  希美は大きく喘《あえ》いだ。 「突然、少年が紙袋に隠し持っていた拳銃を発射したんです。そして、そして……ああ……だめ……ごめんなさい」  泣き出した希美に代わって、ひろみが言った。 「大貫理奈さんの額に、銃弾が命中した」 [#改ページ]    7 誰がファーストだ(Who's on first?)  電話のベルが鳴っていることに気がついて、烏丸ひろみはMDプレイヤーのイヤホンを耳からはずした。コードレスホンで応答すると永峯希美で、想像していたとおり、大雪で電車が止まったため大幅に遅刻するという伝言だった。  このぶんだとタクシーを拾うにも相当並ばなければならないだろうし、いざ乗り込んでも、こんどは道路も立ち往生する車で大混乱になっているはずで、一時間や二時間の遅れではすみそうになかった。それでひろみは、私はいつでも時間をとりますから日を改めましょうかと申し出たが、希美は、お話を早く聞きたいので、なんとしてでもきょうじゅうにうかがいます、と言ってきた。  じつは、きょうの約束は希美からの希望ではなく、ひろみのほうから持ち出したことだった。  先月の段階では、初めて相談にきた希美に対して、ひろみはいわば心理カウンセラーの役割をするに留《とど》まっていた。八年前、旅先の美しい湖で当時の恋人から事実上のプロポーズを受けた希美は、答えはノーだと決めていたのに、曖昧《あいまい》な再会の口約束をしてしまった。それが結果として|ふたりの命を《ヽヽヽヽヽヽ》奪ってしまうことになったため、希美は強い自責の念にかられていた。だからひろみは、まず彼女の精神的な重圧を和らげてあげることが自分の役割だと思っていた。  ひろみ自身、彼女を捜査官引退へと追い込んだある事件(『妖しき瑠璃色の魔術』参照)で被《こうむ》った大きなトラウマを癒《いや》すために、精神分析医《サイコセラピスト》・氷室想介によるアロマテラピーのカウンセリングを受けたことがある(『ラベンダーの殺人』参照)。そうした悩める者の立場も身をもって経験していることから、氷室想介のようなプロのカウンセラーではないが、自分にも役に立てることがあるのではないかと思って、話を聞いてあげていた。だから十二月の時点では、この悲劇の背景に地元警察の調査による結論以外の背景があるとは思っていなかった。  長い空白期間をおいて再会した野木博之が、さわやかな風貌《ふうぼう》とは裏腹の、一種のストーカー宣言とも解釈できるメッセージを手渡したあと、約四十分後に起きた突然の発砲事件は、大貫理奈の命を奪った。  シアトル・マリナーズ無死満塁のチャンスに熱狂していた周囲の観客は、一発の銃声でパニックに陥った。四万七千人を収容するスタンドは、ネット裏で発生した悲劇にすぐさますべての観衆が気づいたわけではなかったが、少年が近くにいた黒人男性客に取り押さえられ、警備員が現場に駆けつけたころには、試合は事件のために中断される騒動に発展していた。  永峯希美はパニックを通り越した極限のショック状態で、外傷はなかったにもかかわらず失神し、そのまま救急車で病院に運ばれた。  殺人の現行犯で逮捕された少年は、タコマ市のパシフィック・ルーサラン大学近くに住む高校生で、以前にも父親が所有するライフルを勝手に持ち出して学校で仲間にみせびらかし、日ごろから、いつか自分はみんながアッと驚くような大きなことをやってみせると口走っており、校内での要注意生徒として監視対象となっていた事実が判明した。  ただし、今回の事件に用いられた拳銃《けんじゆう》は彼の親が所有していたものではなかった。少年の弁によれば、事件前日の午後、自宅のそばで見知らぬ白人の中年男から声をかけられ、明日の大リーグの試合でいっしょに大きなことをやろうと誘われ、当日、セーフコ球場そばのカフェで待ち合わせてスタジアムの中へ入った。中年男は薬物のせいか針金のように痩《や》せ細っており、黒のTシャツに薄汚れたジーンズ姿で、髪の毛はかなり色素が抜けた白髪といってもよい色合いで、眉《まゆ》はさらに淡く、ほとんど眉毛がない感じに見える顔立ちだったという。メガネや髭《ひげ》といった特徴はない。  試合が進行して三回裏のマリナーズの攻撃に入ったところで、その男から紙袋に入った拳銃を渡され、希美たちの座っている後方十メートルぐらいの距離から、具体的に指をさして、あそこにいる野球帽をかぶってサングラスをかけた日本人の女を撃て、と指示された。そして少年は言われたとおり実行した。  発砲後の少年は、周囲の混乱とは対照的にとくに興奮した様子もなく、欲望を満たした充足感に浸った表情だったと、彼を床に押さえ込んだ黒人男性客は証言した。そのさいに抵抗もなく、あれなら女でも捕まえることができただろうとも補足した。  実行にあたっての報酬の約束などは一切なかったと少年は語った。「みんながアッと驚くような大きなこと」ができたという満足感こそが、彼にとって最大のご褒美だったのだ。  常識人の感覚ではおよそ理解しがたい行動だったが、FBIの見解によれば、こうしたバランスを欠いた少年たちによる発砲死傷行為への欲望は、合衆国においては、いまや決して珍しいものではなくなっているという。ただ問題は、その危険な潜在的欲望に具体的な火を点けた大人がいる点だった。しかし、「針金のように痩せ細って黒いTシャツを着た、色素が抜けた感じの白い髪の男」に該当する人物は、球場内の監視カメラを点検しても、これだと特定して見つけだすことはできなかった。  そこで、被害に遭った日本人側の事情が重要になってきた。少年の行為は無差別殺人ではなく、明らかに狙撃対象を指定されたうえで拳銃を渡されていたからである。そこで警察への事情聴取には、英語のしゃべれる軽部勉が真っ先に応じた。  軽部は、被害者の理奈が会社の同僚であり、失神して病院に運ばれた希美が自分の事実上の婚約者であるという関係を述べたうえで、こんなことが起きて自分もひどく混乱しているが、心当たりがたったひとつだけあると述べた。それが、事件の少し前に彼らのもとへやってきた野木博之のことだった。  軽部は今回三人でシアトルへやってきたいきさつを詳細に話したうえで、おそらくほんとうに狙《ねら》われていたのは大貫理奈ではなく、自分の婚約者である永峯希美だったと思う、と述べた。  実際、希美と理奈は服装こそまったく違ってはいたが、後ろから見れば、おそろいのマリナーズの野球帽にサングラス姿であり、髪の毛も黒い。少年に指示を出した男が、さらにまた誰かから殺害指示を出されていたとすれば、その伝言の途中で標的を取り違えた可能性もあるし、白い髪の男は希美の後ろ姿を指さしたつもりでも、少年はそれを理奈を示したものだと勘違いして受け取ったかもしれないのだ。  そこで捜査当局は軽部の証言に基づいて、シアトル在住の日本人、野木博之の住まいへと急行した。  ところが——  深夜、警察が駆けつけたときには、野木は自宅アパートメントのバスルームで首を吊って死んでいたのである。  日本語でしたためられた直筆の短い遺書があった。そこにはたったひとこと、「こんなはずではなかった」と記されてあった。  リビングの一角ではCNNに合わせたケーブルテレビが点けっぱなしになっており、画面ではセーフコ球場の惨劇が繰り返し報道されていた。  野木は、とくに日記類を残していなかったし、パソコンのハードディスクにも事件に直結するような記録は発見されなかったが、希美に野木本人から手渡された直筆メッセージが決定的な証拠となって、つぎのような結論が導き出された。  野木博之は、学生時代の恋人であった永峯希美への愛を忘れることができず、彼女の気を引くために勤務先の化粧品会社PR誌に小説の売り込みを図った。たまたまその担当窓口であった大貫理奈が、野木の端整な容姿を見込んで掲載を決定。ところが、それが希美の現在の恋人である軽部勉の神経を逆撫《さかな》でし、シアトルでの対決となった。  しかし野木のほうは、希美には決定的な婚約者がいたことに絶望、ストーカー的な文章を手渡したものの、あくまでそれは訣別《けつべつ》の手紙であり、彼は軽部に希美を奪われる事態を容認できず、愛する女性の殺害を企てた。他人の妻となるのを見るよりは、死んでくれたほうがいいという歪《ゆが》んだ独占欲である。その殺害計画は、白い髪の男と赤毛の少年というふたつのクッションをはさんだ委託殺人の形をとったが、それは当初の予定では心中などするつもりはなく、希美だけ殺して自分は知らん顔でいるつもりだったからだとみられた。  ところが、人違い殺人という最悪の結果は、野木をさらなる深い絶望に陥れた。自分の計画にチャンスをくれた大貫理奈を誤って殺してしまい、希美はかすり傷ひとつ負わずに生き残ってしまったのだ。もちろん希美には、誰が惨劇の仕掛人か即座にわかったはずである。  もはや野木にとって死をためらう要素は何もなくなった。そして彼は、事件の報道をテレビで何度も繰り返し見たあと、「こんなはずではなかった」という短い遺書を遺して首を吊った——  シアトル市警とFBIが共同で導いたその結論に異論を挟む声はほとんどなかった。日本のマスコミにしても、あるいは犯罪研究家にしても、その結論に沿ってさまざまな論評を行なった。  一方、被害者の立場とはいえ、社員三人が「主役」となって世界的に報道される事件を引き起こしてしまったことで、勤務先は希美と軽部に冷淡な態度をとった。公私混同から、よくぞ会社のイメージを壊してくれたものだ、と。  そのため最初に希美が、つづいて軽部が社を去った。その後、希美は母親の実家がある京都府城陽市に身を寄せ、軽部は出身地の札幌に帰った。そしてふたりの結婚話は白紙に戻された。いまだに軽部はそのつもりでいたのだが、軽部の両親が、理奈さんの不幸を考えたら、あなたたちの結婚は無期延期にすべきだと言いはじめていた。そもそも、当の希美が精神的に参って結婚どころではなくなっていた。  先月、永峯希美から一連の話を聞いたとき、捜査官であった昔の習性で、烏丸ひろみはこの事件に関して別の解釈ができないかと、与えられたデータをもとに検討をしてみた。米国の捜査当局が導いた結論以外に、異なる真相が隠されている可能性はないだろうか、と。  ひろみの頭をよぎった考えがひとつあった。たしかに赤毛の少年は誤って理奈を殺してしまい、ほんとうの標的は希美であったが、委託殺人の発注者は野木ではなく、婚約者の軽部だったのではないか、という疑いである。  いかに昔の恋人がモデル小説をひっさげて希美の前に再登場したとはいえ、それだけのことでカッとなってシアトルまで直談判に乗り込むという行動が、ひろみの目にはやや唐突に感じられたのだ。また、野木との折衝役に必要とはいえ、大貫理奈まで誘っての渡米は、どことなく不自然な感があった。  さらに、現地での軽部の態度にも不審なところがあった。希美が思わず昔の恋人のほうに気持ちを戻してしまいそうになるほどの冷たい対応もそうだし、到着初日夜のひどい泥酔ぶりを聞かされると、どこか芝居じみているようにも感じられた。  そして、初日は希美が睡眠薬を飲んで昼間から寝入っており、反対に翌日は軽部が二日酔いでホテルにこもっていたことを考えれば、シアトルに着いてからの二日間、軽部の行動は、ほとんど希美は把握できていないのだ。そうした状況が、ひろみは気にかかった。  だが、希美自身に確かめても、軽部があのころ別の女性と浮気していた気配はまったくないというし、彼に「逆玉の輿《こし》」のような縁談が降って湧《わ》いたという話もない。そして、これだけの重大な悲劇があってもなお、軽部のほうからは、希美との結婚をあきらめるつもりは微塵《みじん》もないらしい。  軽部の友人たちも、口を揃《そろ》えて彼の希美への一《いちず》途な思いを証言しているし、事件後、希美との結婚を無期限延長せよと進言する自分の両親に対しては、軽部は親子の縁を切るとまで反発しているとの情報もあった。 「ツトムの私に対する気持ちは、いまもぜんぜん変わっていないと思います」  希美はひろみに言った。 「でも、私のほうが変わってしまったんです」  そうした状況を考え合わせれば、軽部勉による婚約者謀殺計画の失敗、という筋書きは、やはり考えすぎだと、烏丸ひろみは自分の頭に浮かんだ仮説を撤回した。そして、自分の役割は犯罪捜査官ではなく、あくまで永峯希美の心理カウンセラーなのだと割り切って、これからも定期的に彼女を支えていってあげようと思ったのだ。  しかし——  年が明けて一月になってすぐ、ひろみ自身、まったく想像もしていなかったところから、重大な疑惑が突然浮上してきた。そして、セーフコ球場で起こった大貫理奈射殺事件の、真の構図が見えてきたのだ。そのきっかけを与えたのは、なにげなく見ていた正月のケーブルテレビ。そこで放映された一本の映画——第六十一回アカデミー賞の四部門を受賞した名作『レインマン』だった。  それはセーフコ球場の悲劇が起きる少し前、シアトルの取材旅行から帰ってきた烏丸ひろみが、レンタルビデオ店でなにげなく手にとって借りてしまった作品でもあった。       *   *   * 『レインマン』は、ダスティン・ホフマン演じる自閉症の兄レイモンドと、トム・クルーズ演じる奔放な弟チャーリーが織りなす兄弟の絆《きずな》の物語である。  ロサンゼルスで自動車販売代理業を営むチャーリーは、資金繰りにうまくいかず困っていたところ、長い間音信不通だった父親の死を知らされる。父親は巨額の財産を遺したが、それはすべて、チャーリーにとって存在すら知らなかった兄のレイモンドに譲られるという。その兄は、自閉症でじつに四十年間も入院をしていたのである。  なんとかしてその遺産の分け前を手にしたいチャーリーは、兄を病院から出してロサンゼルスへ連れ帰ろうとする。愛情のためなどではなく、莫大《ばくだい》な金目当てで起こした行動だった。その道中、自閉症のレイモンドの奇行にチャーリーは悩まされるが、その一方で、レイモンドのケタはずれの記憶力に驚かされる。  その旅をつづけているさなか、チャーリーは幼いころ想像上の友だちだと思っていた「レインマン」が、じつは自分が兄レイモンドの名前をきちんと発音できなかったときの呼び方であることに気づく。そこからチャーリーの心に、忘れていた兄への愛情が芽生えていくのだ。  その感動の物語の中で、レイモンドがナーバスになったとき必ずつぶやきはじめるコメディの一節がある。それが『誰がファーストだ(Who's on first?)』である。  これは一九四〇年代から五〇年代にかけて、アメリカで絶大なる人気を誇った——日本式に言うなら漫才コンビ「バド・アボットとルー・コステロ」のふたりの最も有名な持ちネタで、『コルゲート・アワー』というテレビショーなどで何度も上演され、二十世紀最高のコメディとの評価を与えられ、いまもなおビデオ化されて人気を博しているほどの作品だった。  これでもかこれでもかと連発される野球をテーマにしたダジャレネタなのだが、日本語の字幕ではその面白みがまったく出ていないため、『レインマン』を見る人間には何のことだかさっぱりわからず、ひとつのエピソードとしてあっさり流されてしまう部分である。本来の内容はこうだ。  セントルイスに着いたら、大リーグ観戦を楽しめるように地元チームについて教えてくれないか、とルー・コステロが切り出す。するとバド・アボットは、セントルイスのチームはみんな面白いニックネームで呼ばれていて、Whoがファーストで、Whatがセカンド、I don't knowがサードだと答える。「誰」「何」「知らない」が、内野手のニックネームになっているのだ。  それを理解しないルーは、「そうなんだよ、だからおれはセントルイスのメンバーを知りたいんだ」と重ねて問い返す。以下、つぎのような展開となる。 バド「だから『誰』がファーストで『何』がセカンドで『知らない』がサードだよ」 ルー「きみは選手の名前を知っているのか」 バド「イエス」 ルー「じゃ『誰』がファーストなんだ?」 バド「イエス」 ルー「おれは、ファーストの名前をきいてんだけど」 バド「『誰』」 ルー「セントルイスのチームでファーストを守っているのは『誰』かときいてるんだ」 バド「『誰』」 ルー「あんた、おれになにをたずねてるんだ」 バド「たずねてるんじゃなくて、答えているんじゃないか、『誰』がファーストだ、っていうふうに」  このやりとりが延々つづいたあと、さらにセカンド、サードの話になっていく。 ルー「だからファーストの名前は『何』かときいてるんだ」 バド「『何』はセカンドだ」 ルー「おれは『誰』がセカンドなのかをきいてるんじゃない」 バド「『誰』がファーストだ」 ルー「知らないからきいてるんだろ」 バド「『知らない』はサードだ。いまはサードの話をしてるんじゃない」  そしてこのチームではレフトがWhy《なぜ》で、センターがBecause《なぜならば》、ピッチャーがTomorrow(明日)、キャッチャーがToday《きょう》というニックネームなので、ますます話はぐちゃぐちゃになっていって、ルーが「こんど『誰がファーストだ』って言ったら、しまいにゃ腕へし折るぞ」と怒り出す。  基本的には関西のコテコテ漫才と同じ展開である。  若いチャーリーは五〇年代のこの有名なコメディを知らず、兄レイモンドのためにビデオ店へ行って、アボットとコステロのビデオを買ってくる。そして、そのビデオをいっしょに見て「これは面白いな」と笑い、兄にきく。「これをいつ最初にみたの?」  すると兄は答える。「パパがくれた野球の雑学事典で」  弟が問い返す。「本で読んだんじゃ面白くないだろ」  ぼそっと兄が答える。「ぜんぜん面白くない」  ここで映画の観客はドッとウケる計算になっている。そして『レインマン』のラストで、けっきょくふたたび病院に戻ることになった兄レイモンドの荷物に、弟のチャーリーがこのビデオを入れてやる。  そこでレイモンドがつぶやくのだ。「『誰がファーストだ』って、すごく面白い」  チャーリーが言う。「だから面白いって言っただろ」  烏丸ひろみは、シアトル滞在中にマリナーズの試合を観に行ったとき、同行してくれたアメリカ人カメラマンから、この懐かしのアボットとコステロの十八番のギャグを教えてもらったので、帰国後『レインマン』のビデオを借りたとき、たまたまそこの部分が出てきて驚き、これまでになく深いレベルでこの作品を鑑賞することができたのだ。  そして、永峯希美から相談を受けてから一カ月経ったころに、また偶然、日本のケーブルで『レインマン』を見た。そこでまた『誰がファーストだ』に出会った。無意識のうちに、ひろみは口の中で�Who's on first?"と繰り返しつぶやいていた。  つぶやきながら、このコメディのことを教えてもらったセーフコ球場での場面を思い出していた。  ちょうどそれは試合がはじまる少し前のことだった。ひろみがマリナーズのメンバーの名前をたずねたとき、アメリカ人カメラマンはまじめな顔で「誰がファースト」と答えたのだ。おもわずひろみは「そうよ、だから誰がファーストで、誰がセカンドなの。私、マリナーズは佐々木しか知らないから」と重ねてたずねると、「誰がファーストで、何がセカンド、サードは知らない」と切り返された。  そして、ぽかんとしているひろみに対して、カメラマンはアボットとコステロのギャグを解説してくれたのだ。ひろみは大笑いした。前の席にいた客も、それを聞いてふたりの会話に割り込んできて、大いに盛り上がったものだった。アメリカ人にとって、このコメディは一般教養という範疇《はんちゆう》に入るほどの常識らしい。  あまり笑いすぎて喉《のど》が渇いてしまったので、まだプレイボールまで間があったから、ひろみは冷たい飲み物を買いにいくため、席を立って売店のほうへ向かった。カメラマンもいっしょについてきてくれた。  そのときの情景が『レインマン』のテレビ放送をきっかけに、つぎからつぎへと蘇ってきた。後日、ひろみと同じスタジアムで地元マリナーズの試合を観ていた希美も、状況としてはほぼ同じような光景の中にいたはずである。ただし希美の場合は、大笑いをするような状況にはなかったし、グラウンドの試合展開などまるで目に入っていなかったのは間違いない。  自分の観戦体験と比較しながら、烏丸ひろみは、大貫理奈が撮影したビデオの、なにげないひとこまを思い出していた。  理奈が撮影した球場の様子は、ふたつの部分に分かれる。前半は、席に着いてから試合がはじまってまもなく、野木に声をかけられるところまでだ。そして後半は、茫然自失の希美をよそに、三回裏のシアトル・マリナーズの猛反撃を撮っており、そして少年の凶弾に倒れるところまで。  希美からそのビデオテープのコピーをもらったとき、ひろみが重点的にチェックしたのは後半のほうだった。少年に撃たれる悲劇的で衝撃的なシーンに、なにか見落とされた手がかりはないものかと、何度も見返したものだった。  しかし、アボットとコステロのギャグとともに思い出したのは、前半部分のほうだっった。ひろみが試合開始直前にそうしたのと同じように、軽部も国歌の斉唱がはじまる前にコーラを買いに行った。そのときの模様である。  まずビデオ画像は、理奈が着席して撮影を開始してからまもなく、何度か大きくぶれて、とんでもない方向を写し出した。通路へ出ようとする老人のために、撮影者の理奈が、カメラを回したまま席から立ち上がったり座ったりしたからだ。  老人が階段通路へ出たあと、軽部は立ったついでという感じで、何か飲み物を買ってこようかと希美と理奈にきいた。理奈はコーラを注文し、希美はいらないと言った。軽部が席を立ってまもなく、グラウンドに黒人の女性歌手が登場し、スタジアムの観客が一斉に起立脱帽して、国歌斉唱のセレモニーがはじまった。  それが終わったころ、軽部がコーラを手に戻ってきた。そこで希美との間に、コーラを飲む飲まないに関してちょっとトゲトゲしいやりとりが交わされる。そして試合開始がコールされたころ、さきほどの老人が、軽部と同じようにコーラの入った紙コップを両手に持って席に戻ってきた。そのときに、うっかりコーラを希美にかけてしまうハプニングもあった。  何かが気になった。  それでひろみは、『レインマン』の放送が終わってすぐに、ダビングしてあった問題のビデオを見返した。  これまで大貫理奈の射殺場面ばかり気にしていたが、なんということのない試合開始前の光景に何か引っかかるものがあった。それは、同じように試合を観に行った自分の経験に照らし合わせて引っかかるものがあった。 (なんだろう)  何度も何度も繰り返しビデオを見て、そしてひろみは違和感の原因をつかんだ。コーラを買うために先に席を立った老人のほうが、軽部よりもだいぶ遅れて席に戻ってきているのだ。  それは格別気に留めるほどの問題ではないように思えた。このテープのオリジナルをチェックしたシアトル市警やFBIも、この場面に重大な事実が隠されていることに気づいた様子はない。  軽部より先に出た老人が、軽部よりあとから戻ってきた。その理由はいくらでも考えられる。飲み物を買う前にトイレに立ち寄ったのかもしれない。あるいは、軽部が並んだ列よりも、ずっと客のさばき方が遅い列に並んでしまっただけかもしれない。  もしも逆に、軽部のほうが先に出たのに老人よりあとに戻ってきたら、なにか不審な行動のために時間をとったのではないかという疑いも生じるが、その逆では、何の問題もないように……いや、あるのだ。問題が大いにあった。  それは、軽部が飲み物を買いに行っている最中に、アメリカ合衆国国歌が歌われていたという事実と重ね合わせて導かれた発見だった。 (そうだ!)  あたりまえすぎて、アメリカの捜査当局でさえ見過ごしていた重大なポイントに、烏丸ひろみは気がつき、目を見開いた。 (あのとき、グラウンドではアメリカの国歌が歌われていたんだ!) [#改ページ]    8 星条旗に暴かれた真実  予定より二時間半遅れて永峯希美がインタホンを鳴らしたとき、その応対に出ながら、まだ烏丸ひろみは迷っていた。完全に構築された新たなる仮説を希美に述べてよいものかどうか、その判断に苦しんでいた。  大貫理奈の死と野木博之の自殺という二重の衝撃、そして軽部勉との結婚も流れようかという状況にあって、希美にショックの追い討ち——というよりも、決定的なだめ押しを与えてよいものか、ひろみは悩んだ。  永峯希美は、決して「元捜査一課刑事」としての烏丸ひろみを頼ってきたわけではない。たしかに彼女は、大貫理奈が撮影したビデオのコピーや野木に手渡されたメッセージの複写をひろみのもとに持参した。だが、それは決してセーフコ球場での悲劇に関して、捜査当局とは別の見解が存在し得ないかをひろみに検討してもらおうという主旨ではなかった。あくまで事件の背景にある人間関係をひろみに理解してもらうための資料だったのだ。そして希美が求めていたのは、これから自分はどのようにして傷ついた心を癒《いや》していけばよいのか、という問題の答えだった。  あくまで烏丸ひろみは「女性の気持ちがわかるエッセイスト」として、一ファンの希美からすがってこられていたのだ。その自分が、役割を逸脱して捜査官の顔をいきなり希美に見せてよいのだろうか。  しかも、今回導いた新たな推論が絶対に正解だと客観的に証明できる手だては、とくにないのだ。だとすれば、自分の推理を話すことが、いったい希美にとってどれほどのプラスになるのか。むしろその行為は、希美を救うどころか、まったく逆の効果をもたらすことになりかねないことを、ひろみは懸念した。  だがその一方で、自分が突き止めた「事件の真相に関する新解釈」が当たっていた場合、それを放置したことによって希美が新たな不幸に巻き込まれる危険性はないのか。そのこともひろみは気にかかった。  もしもひろみが真実を察知しながら遠慮して希美に話さず、その結果、希美が誤った未来へと踏み出していったら、それもまた自分が責任を負わねばならないことではないかという気がした。  ひろみは大きなため息をついてから窓辺に近寄り、寒さに曇った窓ガラスを、また手で拭《ふ》いた。外の雪は、いつのまにかだいぶ小降りになっていた。もっともっと降りつづけて、永峯希美がきょうは物理的にやってこられないような天気になってくれていればよかったのに、と、ひろみは空を見上げてた。いつになく、迷いで心が揺れていた。  もういちどインタホンが鳴った。部屋のドアの前から鳴らした場合の短い音だ。  ひろみは窓辺を離れて玄関へ歩いてゆき、相手が希美だとわかっていたけれど、防犯上の習慣で念のためにマジックアイを覗《のぞ》いた。  ひろみは息を呑《の》んだ。  たしかに希美がそこにいた。だが、予想もしなかった連れがいた。  軽部勉だった。       *   *   * 「この雪ではやっぱり無理かと思っていたのに、よくこられましたね」  ふたりのために紅茶をいれながら、ひろみは気持ちを落ち着けさせるために、しばらく彼らに背を向けていた。  やはり感覚が鈍っている、と思った。  感覚とは——犯人に面と向かって、なお知らん顔をする図太い感覚。捜査の第一線にいたときは、連続殺人犯の容疑者を前にしても、にこやかな演技をつづけられるぐらいのタフさを持っていたが、現場を去ってから何年も経ったいまは、そのへんの神経が、かなり一般人に近いところまでヤワになっていた。  実際、烏丸ひろみはかなり緊張していた。 「あれからいくら待ってもタクシーは拾えないし、あいかわらず電車は動かないし、やっぱりきょうは、ひろみさんのところへ行くのは無理かなと思っていたんです」  まだ寒さで鼻のあたりを赤くしたまま、応接ソファに軽部と並んで座った希美は、ホッとした声でひろみに語りかけた。 「でも、ひろみさんに電話したすぐあとに、ツトムから携帯に連絡が入ったんですよ」 「ちょうどぼくも東京に戻ってきたところだったもので……。この歳になって実家に長居というのはよくないですね。なにかと親とぶつかって。それでたまらなくなって、北海道からフェリーを使って帰ってきたんです。またこっちに住もうと思って」  すでに紅茶をいれ終わっているのに、まだ向き直ろうとしないひろみの背中に、軽部は明るい声を投げかけた。 「そしたら、いきなりこの雪でしょう。まあ大雪といったって、札幌に較べれば可愛《かわい》いもんですけどね。車は四駆だし。……だけど、東京の大雪よりびっくりしたのは、希美もこっちに出てきていたことですよ。てっきり京都で電話を受けているんだとばかり思っていたのに」 「それで彼に事情を話して、ひろみさんのところまで乗せてきてもらったんです」  と、希美が話を引き取ると、すぐにまた軽部が、 「すみません、よけいな付録がついてきて」  と笑った。 「だけど、やっぱり希美のこととなると、ほうっておけなくて」  まるで新婚カップルだ、と、ひろみは思った。どこかの新婚旅行から帰ってきて、おみやげ片手におのろけ報告会でもしにきたようだ、と。  ひろみは悟った。けっきょく希美は軽部勉という男を必要としているのだ。事件のショックからなかなか立ち直れず、ふたりとも会社に居られる状態ではなくなって退社し、希美は京都に、軽部は札幌にと別れ別れになってしまった段階では、とても予定どおりの結婚などできるはずもないと彼女は悲観的になっていた。ところが、軽部が親に反発して東京に戻ってきて、偶然、それが自分の上京と一致すると、希美は神に引き合わされたかのように、運命的なものを感じはじめている。  そして重要なことは、希美がすでに悲劇の記憶を自分の中で薄めていこうとしている点だった。十二月に会ったときの心理であれば、こんな明るい声は出せない。いや、ついさきほどの電話でも、せっぱつまった様子が手に取るようにわかった。ところが、軽部と予想もしなかった再会を果たしたとたん、希美は変わった。 (ほうっておけば、希美さんは軽部勉と結婚する。まだ揺れているかもしれないけれど、もうすぐ決める)  ひろみはそれを確信した。  もし軽部がこの場にいなければ、そして希美が軽部との結婚をキャンセルする方向で変わっていなければ、ひろみは自分の発見をあえて話すことをやめたかもしれない。軽部と別れる展開ならば、知らないままでよい話なのだから。だが、もうそうはいかなくなっていた。  ひろみは深呼吸をひとつすると、ふたりのためにいれた熱い紅茶をトレーに載せて、彼らの待つほうをふり返った。 (この紅茶をぜんぶ飲む前に、すべてを終わらせてしまおう。ぐずぐずするのはよくない。迷ってはだめ) 「それで、烏丸さん」  紅茶の礼を述べて、砂糖もレモンも使わずにストレートで一口すすったあと、軽部は笑顔を浮かべたまま、少し上目づかいになってたずねてきた。 「なにか、ひろみさんのほうから大事な話があるんですってね」 「ええ」  と、ひろみは静かに答える。 「去年の事件のことで、ですか?」 「もちろん、そうですよ」 「じゃ、ぼくがここにいてはいけないかな」 「というと?」 「いや、ここへくる途中に希美にきいたんですよ。きょう、ひろみさんからどんな話を聞かされるんだ、ってね。というのも、こんな天気なのに、希美がどうしても行くんだっていうから、よほど重大な話なんだろう、と思ったんです。ところが、希美自身も本日のテーマってやつを具体的には何も聞かされていないみたいじゃないですか。なのに彼女、必死なんですよ。どうしてもきょうじゅうに、ひろみさんのところへ行くんだ、って」 「直感かな」  ポツンと希美がつぶやいた。 「私、ときどき理屈抜きでこの直感に従わなきゃって思うときがあるの」  希美の言葉は、ひろみにではなく、軽部に対する説明になっていた。 「きょうがそのときだった。頭の中で命令する声があるの。絶対、きょうのうちに、ひろみさんのところで話を聞くべきだ。延ばしちゃいけないって」 「で……烏丸さん、やっぱりアレですか。ぼくは外で待っていたほうがいいですか」  また、軽部がきいた。 「いいえ、むしろ軽部さんもいっしょにここで私の話を聞いていただいたほうがいいかもしれません」 「よかった」  軽部は白い歯をみせて笑った。 「そう言っていただけると助かります。ウチの親がなんと言おうと、希美はまだぼくの婚約者だし、ぼくは希美の婚約者ですから。彼女の問題はぼくの問題でもあるんです」 「結婚式、具体的にお決めになったんですか」  ひろみの言葉に、希美はためらいがちに首を横に振り、その隣で軽部はきっぱりとうなずいた。 「もちろん、そのつもりです」  軽部の断定口調に、希美が横で驚いた顔になった。が、その驚きの中に、安堵の表情が混じっていることをひろみはすばやく見抜いた。胸が痛んだ。 「ねえ、軽部さん」  ひろみはさりげなく切り出した。 「私の経歴って、ごぞんじですか」 「エッセイストでしょう」 「それはいまの職業です」  やっぱり希美からは聞かされていないんだなと思いながら、ひろみは言った。 「その前の仕事は、警視庁捜査一課の刑事」 「え!」  驚愕《きようがく》の色が軽部の顔に浮かんだ。  意外な驚きというのとは別種の、畏怖《いふ》をもった驚き。  やはり、とひろみは思った。その確信と同時に、昔の感覚が徐々によみがえってくるのを感じた。容疑者の前で駆け引きができる逞《たくま》しい時代の自分が……。  軽部たちのソファと向かい合わせになったスツールにいったん腰を下ろしていたひろみは、スッと立ち上がってミニコンポが載せられたオーディオラックのところへ進んだ。  何をするのだろうと、ふたりの目が追う。  ひろみはさきほどイヤホンで聴いていたMDプレイヤーの出力ラインにコードを差し込み、コンポのスピーカーから音がでるようにした。そして、希美との会話を録音したディスクの中から、別のトラックを選択して再生ボタンを押した。  いきなりスピーカーからアメリカ合衆国国歌が流れてきた。ソロではなく、合唱団によるコーラスで、ひろみがインターネットのサイトで見つけてダウンロードしたものだった。  希美も軽部も、ひろみの意図がわからずにキョトンとした顔になっている。  ひろみはあえて何の解説も加えずに、まず国歌を最後まで聞かせた。そして再生が終わってから、MDプレイヤーの表示窓に出ているデジタル表示を読みとって言った。 「一分二十二秒です」  そして、またふたりの前のスツールに座った。 「あの……」  軽部が戸惑いの笑顔できいた。 「何なんですか、いまのは」 「アメリカ合衆国の国歌です」 「それぐらいぼくにもわかりますけど」 「軽部さんは、とても重要な場面でこれを聞いた覚えはありませんか」 「とても重要な場面?」  烏丸ひろみの言葉に込められた皮肉に気づかず、軽部はまったく心当たりがないというふうに首をかしげた。そこでひろみがたたみ込む。 「国歌というものは、大事なセレモニーの前に演奏されたり歌われたりしますよね」 「ええ」 「あるいはスポーツの試合の前にも」 「ああ……」  思いあたった声を先に洩《も》らしたのは、希美のほうだった。 「野球の試合の前にも、ですね」 「ええ、そうです。事件があったあの日、あなたたちが観戦していたシアトル・マリナーズ対アナハイム・エンゼルスの試合開始直前にも、黒人の女性歌手がマウンドに上がってこれを歌いました」  ひろみの言葉に希美はうなずいたが、軽部はまだはっきりとは思い出せない顔をしている。 「そうだっけなあ。ワールドシリーズでもないのに、国歌なんか歌ったっけ? ぼくはよく覚えていないけど」  それはそうでしょう、あなたは別のことで忙しかったはずですものね、と、ひろみは心の中で相手に語りかける。 「ツトムはコーラを買いに行っていたからよ」  何も知らない希美が言った。 「だからグラウンドを見ていなかったんでしょ」 「ああ、そうだったかもしれない」  うなずいてから、軽部はなおも不審そうな顔をひろみに向けた。 「で?」 「問題はコーラです」  ひろみは、相手に言い訳の余地を与えないため、わざとわかりにくい表現で網を絞り込んでいった。 「試合開始前の国歌独唱がはじまる前に、大貫理奈さんの隣に座っていた白人のお年寄りが——これはあとでわかることですけれど——コーラを買いにいくために、あなたたち三人の前を通りました。すべては理奈さんが撮影したビデオに写っています。ここにそのコピーがありますから、いま再生してみましょう」  ひろみは、あらかじめ巻き戻して置いたビデオテープをリモコン操作でスタートさせた。老人を通すために、理奈の持っていたビデオ画像が揺れるところからはじまっていた。 「このお年寄りの行動を、時間経過のひとつの基準として覚えておいてください」  画面に視線を注ぐふたりに向かって、ひろみは言った。 「このあと、軽部さんは希美さんたちに飲み物がほしいかとたずね、理奈さんがコーラと答えたので、スタンドの後ろへ向かって階段を上っていきました。右下にタイムカウンターが出ていますから、どれぐらいの時間が経過しているか、よくわかりますので注意して見ていてくださいね」  ひろみは、希美がくる前に計測しておいた時間割のメモを手にしていながら説明をつづけた。 「軽部さんが席を立ってから二十秒後に、黒人の女性歌手が国歌を歌うためにグラウンドに現れます。これが午後七時ちょうどです。場内にアナウンスが流れますが、それよりも前に、観客は自発的に起立して、そして帽子をとります」  テレビに映されたビデオの再生画面は、スタンドに向かってにこやかに手を振りながらマウンドへ進む女性歌手の姿が映し出されていた。純白の衣裳にちりばめられたスパンコールがカクテル光線を浴びてきらきらと煌《きら》めいている。 「彼女がベンチから出て、マウンドに立って歌い出すまでが二十八秒です」  黒人特有の朗々たる声が響き渡る。 「さっきお聞かせした国歌は一分二十二秒でしたけれど、彼女の場合はもう少し短くて、一分十三秒です」 「烏丸さん」  軽部がじれて質問してきた。 「いったいあなたは何が言いたいんですか」 「軽部さんが席を立ってから二十秒後に女性歌手が登場し、二十八秒かかってマウンドに立って歌い出し、そして一分十三秒かけて歌い終わる。ここまでの通算が二分と一秒。そして十五秒後に軽部さんがコーラを両手に持って戻ってきます。通算二分十六秒」 「だから、それがどうかしたんですか」 「このあと、軽部さんと希美さんとの間にちょっとした険悪なムードが漂いますよね。コーラに毒が入っているんじゃないかと」 「ああ、あれは……」  自分と軽部とのやりとりが画面に映っているのを見ながら、希美が弁解がましく言った。 「もうすぐ野木さんと会うことになるんだと思っていたら、気が立っていて」 「でも、頭の片隅では、少しだけ信じていませんでしたか?」 「え、なにをですか」 「ほんとうに飲み物に毒が入れられているのではと」 「そんな!」「烏丸さん!」  希美の否定に、軽部の抗議が重なった。 「ちょっと待ってくださいよ、ひどいな、その言い方は。まるでぼくが希美を殺そうとしていたみたいじゃないですか」 「そうは申し上げていません」 「言ったも同然ですよ」 「希美さんは、ついさっき、直感が働くことがあるとおっしゃいましたよね」  軽部のクレームを無視して、ひろみは希美にたずねた。 「まさにその直感が、このときも働いていたんじゃありませんか。なにかよくないことが起きそうだ、と。そして、あなたに無意識にそう思わせる状況が、この野球場での再会場面までの間に積み重ねられていたのではありませんか。シアトルに着いてからのわずかな日にちの間に。……たとえば」  守備のためにグラウンドに散らばってボールを回しあうマリナーズの選手を画面に見ながら、ひろみは言った。 「希美さんは先月こんな話をしてくれましたよね。シアトルのホテルにチェックインしてすぐ、精神的なプレッシャーから逃れるために睡眠薬を飲んで眠ろうとした。でも、軽部さんはそれを強い調子で止めたという」 「そのことは覚えていますよ」  軽部が割り込んだ。 「眠れないからといって、睡眠薬を常用するのは身体にいいことではないから注意したんです」 「起きていてほしいときに眠られては困るからだった、とも言えませんか」 「どういう意味です」 「希美さんが眠ってしまえば、あなたの行動はわからない。それは便利なようでもあり、不便な一面もあった。アリバイが不明の時間はなるべく少ないほうが、後日、身の潔白を主張するときに好都合ですから」 「なに?」 「したがって、希美さんに眠られてしまった以上は、自分が妙な行動をとっていないことを示すために、ホテルのカフェテリアや、バーなどで長時間過ごすことにした。初日はとくに作戦上の予定を組んでいなかったのでね」 「………」  烏丸ひろみのおもわぬ話の進め方に、軽部はもはや抗議も忘れて押し黙った。  その軽部とひろみの顔を交互に見較べる希美は、顔面|蒼白《そうはく》になっていた。こんな話が待ち受けているとは夢にも思っていなかったからだ。 「睡眠薬の助けを借りた眠りから目覚めたとき、希美さんはホテルの部屋のバスルームに人の気配を感じました。軽部さんではない誰かの気配を。あなた、そう話してくださいましたね」 「え……ええ」  問いかけられて、あわてて希美が答える。 「何度か呼びかけると、トイレの水洗を流す音がして、バスルームから人が出てきたんでしたね。それは大貫理奈さんでした。で、彼女はあなたに、どんな目的で部屋に入ってきたと説明しましたか」 「私を、呼びに、きた、と」  希美の声に不安の色が混ざりはじめた。 「軽部さんが下のバーで酔っぱらっていて、希美さんを呼んできてくれと言うので、キーをもらって代わりにきました、というふうなことを理奈は言いました」 「軽部さんからキーを預かって部屋に入ることじたいは、それほど不自然ではないかもしれません。女どうしですからね。けれども、あなたの部屋に入ったときに、トイレを使いますか。バスルームの鏡でちょっと髪を直す程度はするかもしれませんけれど、トイレまで使いますか? 先輩のあなたが眠っているというのに」 「………」  希美は押し黙った。  たしかに、頭のどこかで理奈の行動をおかしいと感じていた。ひろみに指摘されたように、いくらホテルだからといって、他人の部屋を訪れて無断でトイレを使うなど、非常識も甚だしい。しかし、非常識だったのではなく、もっと別の意図があったとしたら……。  ひろみに言われて、希美はあのときの理奈の目つきを思い出した。寝起きの希美の下半身を見て、「永峯先輩、すっごく可愛《かわい》いパンティ穿《は》いているんですね」と言って、前歯をチロッとのぞかせた理奈——  その言い方や表情に不快な気持ちを抱いたのは事実だった。そして、ひろみが言うように、ある種の不信感を、知らず知らずのうちに心に蓄積させていたのかもしれない。軽部と理奈が組んで、自分に対して何かをしようと企んでいるのではないか、という警戒心を……。  そんな思いがよぎったからこそ、翌日は二日酔い状態の軽部を残して、わざわざ理奈を外へ連れだしたのではなかったか。このふたりをいっしょにすまいとして。 「ひろみさんがおっしゃるとおり、理奈の行動は変だったと、いまでも思います」  希美は認めた。 「私が彼女だったら、お手洗いに行きたくなっても、人の部屋のトイレは使いません。少なくとも、相手が眠っている最中に勝手には」 「ですよね。では、なぜ理奈さんは、ただ呼びにいっただけのあなたの部屋でトイレを使ったと思いますか」 「さあ……」 「もしかすると、実際には用を足してもいないのに、水洗の音だけ立てたとは考えませんでしたか」 「なぜ?」  希美は、わからないというふうに首を左右に振った。 「なぜ、水だけ流す必要があるんですか」 「バスルームにいたのは、あくまでトイレを借りるためだったと希美さんに思わせたかったから」 「じゃ、実際には何のために」 「何もせず、ただじっとバスルームにいただけかもしれません。ところが気配に感づかれ、あなたに呼びかけられたために、理奈さんはとっさに水洗のハンドルを押して、あくまでトイレ拝借が目的だったと思わせた」 「じっとバスルームにいた……って……なぜ」 「まさかあなたを殺すチャンスを窺《うかが》っていたなんて、そこまで連想の飛躍は私もしません。でも、憎くて憎くてたまらないあなたと同じ部屋に——それもバスルーム以外は明かりを消した真っ暗な部屋にいっしょにいることで、内面の憎しみをじっと燃え立たせていたとしたら、どうですか」 「なんですって! 私が憎い?」  希美はひろみに向かって叫び、つぎに軽部のほうを見やった。 「ツトム、あなた、なにか心当たりある? ひろみさんが言ったことに」 「………」  軽部は、ひろみを睨《にら》みつけるようにして唇《くちびる》を噛《か》んでいた。 「ああ、見てください。試合がはじまりました」  緊迫した場の雰囲気をそらすように、ひろみがテレビ画面のほうへ顔を向けたので、軽部と希美はこわばった表情のまま、流れつづけるビデオの再生映像に目をやった。 「プレイボールが七時五分です。そしてちょうどこのときに、さきほど軽部さんよりも先に席を立っていったおじいさんが、紙コップ入りのコーラを両手に持って戻ってきました。つまり、このおじいさんの場合は席を立ってから六分近くかかって、やっと戻ってきたのです」  ビデオの映像では、希美の前まできたところでバランスを崩し、コーラを彼女の胸や手にこぼしてしまって、しきりに謝る老人の姿が、今回は音声も出して再生されていた。 「問題は、売店で飲み物を買うのに、なぜこんなに時間の違いが生じたのか、というところです」  画面に姿は映っていない野木博之の「希美」と呼びかける声がオフマイクで聞こえたところで、烏丸ひろみはリモコンスイッチでビデオの再生を止めた。主役の登場はいまは関係がなかった。じつは事件の主役は「シアトルの魔神」などではないのだから。そして、テレビの電源を消して、ふたりに改めて向き直った。 「繰り返します。なぜ、このおじいさんと軽部さんとでは、コーラを買って戻るまでの時間に大きな違いがあったのでしょう。軽部さんは二分ちょっとで、おじいさんのほうは約六分」 「そんなのは不思議でもなんでもない」  軽部が、荒々しい口調で言った。 「あのじいさんは、きっとトイレにでも寄ってたんでしょう。それに、いまのビデオを見て思い出したけど、彼はポテトチップスも買ってた。だからぼくより時間がかかるのは当然ですよ。しかもコーラを売っている場所だって、一カ所だけじゃないんだ。順番待ちの列の長さに差があれば、いくらでも席に戻るまでの時間に違いは出る。……ねえ、烏丸さん、あなた、希美に何を吹き込みたいんですか」 「吹き込む?」 「そうですよ。ホテルの晩の出来事にしても、ぼくは理奈に、たんに希美をバーまで連れてきてくれと頼んだだけだった。理奈もぼくといっしょにけっこう飲んでいたから、部屋に着いたところでトイレを借りたくなっても、それは少しもおかしなことではない。礼儀上の問題を別にすればね。なのにあなたは、いかにも理奈が含みをもった行動をしたような推理をする。  そして、つぎはこのぼくだ。コーラを買って戻ってくる時間が短かったからって、それのどこがいけないんですか。戻ってくるまでに時間がかかりすぎて疑うなら、まだわかりますよ。でも、たったの二分ちょっとでコーラを買って戻ってきた、その行動のどこがヘンなんです。あなた、自分の頭の中で勝手にストーリーを作ってませんか」  一気にまくし立てると、軽部勉は目の前のカップを取り上げ、まだかなり熱いはずの紅茶をぐいと喉《のど》に流し込んだ。  カチャリと音を立てて皿に戻された紅茶のカップは、底のほうにわずかにルビー色の液体が残っているだけだった。 「おい、希美、帰ろう」  軽部は勢いよくソファから腰を上げ、まだ座ったままの希美を強い口調でうながした。 「おまえ、とんでもない人に相談を持ちかけたもんだよな、え。元刑事だかなんだか知らないけど、烏丸さんって、いまはただのエッセイストだろ。ぼくはね、野木もそうだったけど、小説とかエッセイとかそういうのを書く人間をハナっから信用していないんだ。架空の世界と現実の世界をごっちゃにしてしまうような人種の言うことなんて、まともに取り合ったらバカをみるぞ、おまえ」 「………」 「帰ろうぜ、ほら。なにぐずぐずしてんだよ、おまえよー」 「待って」  軽部に腕を引っぱられても、希美は動こうとしなかった。そして、立ち上がっている軽部のほうは直接見ずに、まだまったく口をつけていない自分のカップに視線を落としたままきいた。 「なにを焦ってるの、ツトム」 「アセる?」 「そうよ。あなたが私のことを『おまえ』って何度も呼ぶときは、決まってものすごく焦っているとき。状況が自分に都合の悪い展開になってきて、あわてたりイラついたりしているとき」 「じょ……」  軽部は、ははっと、短い笑いを洩《も》らした。 「じょーだん、やめてくれよ。へんてこな精神分析はごめんだな」 「焦っていないんだったら、ひろみさんの話をもっと落ち着いて聞いて」 「烏丸さんには悪いんだけどね、ぼくは焦ってはいないけど、怒ってはいる。なんて失礼な女だ、こいつ、って」  こいつ、というところに、軽部はめいっぱい力を込めて言った。  だが、希美は軽部にはまったく同調せず、ぽつりとつぶやいた。 「私、思い出したわ」 「なにを」 「コーラのこと」 「またコーラかよ」  うんざりだという顔で、軽部は天井を仰いだ。 「いいからツトム、もういちどちゃんとここに座ってきいて」  尻のぬくもりがまだ残っているソファの上を、希美は手のひらで押さえて示した。 「はやく、座って」 「わかったよ」  聞こえよがしの大きなため息をついて、軽部はドサッと腰を落とした。 「あのね、ツトム、冷たかったの」 「はあ?」 「コーラがね、冷たかったのよ」 「あたりまえじゃないか。冷たくないコーラなんて、まずくて飲めるか」 「ちがうの、冷たかったのは、おじいさんにこぼされたコーラのほう。手の甲にかかったコーラは冷たかった。でも、あなたが買ってきてくれたコーラは、あまり冷たくなかった気がする。いまビデオでも理奈が同じ感想を言っていたわ」 「え?」 「もっと確かだったのは、気が抜けていたこと。だから口に含んだ瞬間、ピリッとした刺激がなくて、なんだか変な感じだった。それもあって、ほんとうに毒が入っているんじゃないかと疑ったほど」 「気のせいだろ。それに、気の抜けたコーラだったら、おれに文句を言わないで、売店のおばさんに言ったら」 「………」  希美は黙った。  直感が、また彼女を動かしていた。直感だけでなく、論理的な分析も希美の頭の中ではじまっていた。たった二分で買って戻ってきたコーラが、なぜ気の抜けたようだったのか。なぜあまり冷たいと感じなかったのか。それは、時間の経過以外に説明はつかない。しかし、二分少々で売店から買って戻ってきたコーラが、ぬるくなったり気が抜けていたりするはずがない。  すると、烏丸ひろみが手助けをするように口をはさんできた。 「ねえ、希美さん、あなたと理奈さんは、当日のスタジアムで大きなマナー違反をしていたことに気づいていますか」 「大きなマナー違反?」 「ええ。野木さんとの再会を間近に控えていたから、緊張でほかのことに気が回らなくても無理ないけれど」 「なんのことでしょうか」 「アメリカの国歌が歌われているあいだ、理奈さんはずっとビデオを回していましたよね。そのとき、希美さんの姿も少し写っていましたけど、帽子をとっていませんでした。かぶっていたマリナーズのキャップを」 「あ……」  希美は、そう言われて初めて気がついた。  国歌が流れているときは、起立するだけでなく、脱帽して敬意を表さなければならない。万国共通のマナーである。しかし、マリナーズの野球帽は、そのほんの十数分前に、日本のマスコミに素顔を写されないようにと、軽部から突然買い与えられ、かぶっていろと命じられたものだった。だから希美には、自分がいま帽子をかぶっているという意識がなかったのだ。もちろん、それだけではなく、日本で暮らしているかぎり、エンターテインメントの席上で、国歌斉唱による起立脱帽という場面にはめったに遭遇しないからでもあった。 「撮影者の理奈さんも、帽子を取ったような動作が見受けられませんでした」 「ええ、彼女もかぶったままだったような気がします」 「それはたぶん、私たち日本人が、国旗や国歌に対して敬意を払う習慣に慣らされていないからだと思うんですね」  ひろみは言った。 「日本で国旗や国歌というと、すぐにトゲトゲしいイデオロギー問題として論じられますけど、そんなことよりも、『日の丸』や『君が代』の成立過程に、弱者が強者の支配と闘って自由を勝ち取ったというプロセスがないことが大きいと思うんですよ。日本の国歌や国旗には、小が大を倒したという市民レベルの誇りの要素がない。そのために、スポーツという戦いにおける象徴としては、国旗や国歌が成立しないんです。出番があるのは国際試合のときだけ。自国と外国の識別という意味合いしか持たされていませんから。それ以外には改まったセレモニーのときに限られてしまう。  けれどもアメリカにしてもほかの国にしても、国旗や国歌は、信念を持った戦いで全力を尽くす象徴というニュアンスが強いから、国際マッチでなくても、国内ゲームでも試合がはじまる前には当然のように国歌が歌われます。野球、フットボール、バスケットボール——そうしたゲームでは、レギュラーシーズンの毎日の試合で、ちゃんと国歌が流される。だから、起立して脱帽するという行為は、少しも特殊なものではないんです。そして、そのように国歌に対して敬意を払う国民だからこそ、日本人にはとうてい考えられない習慣があるんです。そのことを、私はひとつの映画の場面をきっかけに思い出したんです」  烏丸ひろみは、映画『レインマン』の中に五回も登場する『誰がファーストだ』というアボットとコステロのコメディをかんたんに紹介し、その話題を最初に持ち出された、セーフコ球場での大リーグ観戦に話を移した。 「私が思いだしたのは、そのコメディの話で大笑いをしながら、じゃあきょうのファーストは実際には誰なんだって、グラウンドに目をやったときの光景でした。試合直前なのに、まだ選手がひとりも出てきておらず、芝生の緑ばかりが目立つがらんとした空間があっただけなんです。試合前の公式練習が終わり、実際にプレイボールが宣言されるまでの間に、日本では、通常のペナントレースの試合では存在しないプログラムがそこに組まれていたからです。そのために『誰がファーストで、誰がセカンドなんだ』って、グラウンドを見下ろしても、選手の姿は誰も見つからなかった。そしてピッチャーズマウンドには、スタンドマイクが一本立っていました」 「国歌を歌うためですね」 「そうです」  ひろみは、希美に向かってうなずいた。 「でも、そのときの私は、まさか普通の試合で国歌を歌うとは考えてもみませんでしたから、大笑いをして喉《のど》が渇いたので、飲み物を買いに行こうと売店へ向かったんです。いっしょにいたアメリカ人のカメラマンといっしょに。ですから、ちょうど軽部さんがコーラを買いに行ったのと同じタイミングです」  ひろみはそこで軽部に目を向けた。 「では、軽部さんにおたずねしたいんですけど、あなたがコーラを買いにいったとき、売店にはどれくらいの人が並んでいましたか」 「そんなもの覚えてるわけないでしょう、半年前ですよ」 「でも、平凡な一日のひとこまではないわけですから、記憶の糸はたぐり寄せられるんじゃないんですか。こうやってビデオの映像も残っているわけですし」 「まあね……そうだな、ほとんど並んでいなかったと思う。たしか、ひとり買っていて、そのすぐ後ろについたんだったかな」 「じゃ、人数待ちはたったひとりだったと」 「そんなもんだったでしょう。だからすぐに買って戻れた」 「ほんとうにそうですか」 「なんだよ、その目つきは。たかが売店の待ち人数のことなんかでウソついたってはじまらないでしょう」 「では、ご自分の席から売店まで、どれぐらいの距離があったか覚えてますか」 「覚えてるわけありませんね」  軽部は、突っぱねるような答え方をした。 「覚えていたら、そのほうがよっぽど不自然じゃないか。ともかくいまビデオで見たように、二分十何秒で戻ってこられたんだから、そんな遠くじゃないってことだよね」 「そこで、あなたはコーラをふたつ買いましたね」 「そうですよ」 「売店の人は、紙コップにコーラを注ぐとき、ふたつ同時にやったんですか。それともひとつずつですか」 「ふたついっぺんになんて芸当はしなかったな。ちゃんとひとつずつ注いだ。……ねえ、烏丸さん、もういい加減にしてくれよ。あんた、何が言いたいんだ」 「不可能だということを申し上げたいんです」 「なにが」 「二分十六秒で、売店まで行ってコーラふたつを買って帰ることが無理だと申し上げているんです」  烏丸ひろみは、軽部の目をまっすぐ見つめて言った。が、軽部はひろみの眼差《まなざ》しをかわすように肩をすくめた。 「残念でした。ぼくはね、あのときものすごく急いでいた。野木がいつ現れるかわからない状況だったから、できるだけ早く席へ戻りたかったんだ」 「そんなに重要なご対面が控えているんだったら、コーラなんて買いにいかなければよかったのに」 「でも、理奈が飲みたいと言ったんだ」 「あなたが飲むかとたずねたからでしょう? 理奈さんのほうからコーラを買ってきてと頼んだわけではなかった。あなたから、飲み物はいらないかときいたんです。いつ野木さんがやってくるかわからないのに」 「だからあ」  軽部は自分の太股《ふともも》を自分でパンと叩《たた》いた。 「人間は緊張すると喉が渇くだろ。だから買いに行こうと思ったんだよ。烏丸さんが、ギャグで笑いこけて喉が渇いたのといっしょだよ」 「それはわかりました。でも、どんなに急いでも、二分十六秒で席に戻るのは不可能です」 「じゃあ、やってみなさいよ、あなた」  しだいに軽部は顔を赤くしてきた。 「ほんとうに不可能かどうか、いまからシアトルまで飛んで、セーフコ球場まで行ってさ、実験してみなさいよ。ぼくらがいた席はこのビデオにも写っているんだから、正確な再現ができるでしょ。いいかい、烏丸さん。ぼくは走っていったんだよ、売店まで。あの白人のじいさんみたいに、よたよた歩いていったんじゃない」 「でも、帰りは走れません」 「………」 「そうですよね。コーラを満たした紙コップを両手に持っていたら、走ればこぼれますから」 「そりゃそうだ。帰りは歩いたよ。だけど行きは走った。階段を何段飛びかでタンタンターンと」 「でも帰りは歩きました」 「そうだよ。くどいな、あんた!」  とうとう軽部は大声を張り上げた。 「帰りはこぼさないように、慎重に歩きましたよ。だからなんだってんだ。おれはダーッと走っていって、二十秒かそこらで売店に着いた。ひとりだけ先客がいたけど、そいつはすぐに終わって、おれの番になった。売店のおばさんだってね、つぎからつぎに客をさばかなきゃいけないから、手際がよかったんだ。パッパッパとコーラを入れて、金はたしかぴったり払ったから釣り銭もなくって、そこまでで一分半経過。残り四十五秒でコーラを持って席に戻った。これのどこがおかしいのよ。え、どこがヘンなのよ。具体的に言いなさいよ、あんた」 「最後の十五秒が問題なんです」 「十五秒?」  軽部は眉《まゆ》をひそめた。 「なんだよ、その十五秒って」 「いまのビデオでも確認できましたけれど、国歌の独唱が終わって十五秒後に、あなたはコーラを持って席に戻ってきました」 「みたいだね。それで?」 「つまり、どう計算しても、あなたが売店でコーラを買ったのは、国歌が歌われている最中だということになります」 「そうだよ」 「そうなんですか?」 「ああ、そうだよ。いま思い出したけど、聞こえていたよ、さっきビデオにも写っていた、バーンと体格のいい黒人の女が歌っている声が」 「それを聞きながら、あなたは売店のおばさんがコーラをついでくれるのを見ていた」 「そういうこと」 「そして、まだ国歌が歌われている段階でお金を払って、その場を離れた」 「イエス」 「間違いありませんね」 「イエ〜ス」 「いいんですね。もう訂正は利きませんよ」 「うるせえんだよ、バカヤロー!」  軽部は爆発した。 「なにぐちゃぐちゃ言ってるんだ」 「そうですか。では、言わせていただきます。軽部さん、あなたは嘘《うそ》つきです」  烏丸ひろみが静かに告げた。あまりにバッサリと言い切ったので、軽部は怒るのも忘れてぽかんとした。 「あなたはじつは国歌独唱中に、売店のところにはいませんでした。だから、ある規則を知らずに、いまのような嘘を平気でつけるんです」 「ある規則?」 「さっき私が申し上げたように、日本人と違って、アメリカの国民は国旗である星条旗と、国歌の�The Star Spangled Banner"には、たいへんな敬意を払います」 「それで?」 「国歌が歌われている最中は、それに敬意を表して、スタジアムの売店では物を売る行為を一時的に中断しなければならないと決められているんです」 「え?」  軽部だけでなく、希美もびっくりしてひろみを見つめた。 「どんなにお客さんが列をなして並んでいても、あるいは飲み物の栓を開けようとしたところでも、グラウンドで国歌が歌われ出したとたん、すべての売店は品物を売る動作をストップさせなければならないのです。歌い終わるまで、ずっと何もせずに待っていなければなりません。売り子さんも、お客さんも全員です。それが合衆国国歌と星条旗に対する敬意の表明なんです。これはアメリカ国民の常識です。私たち日本人にはとうてい想像もつきませんけれどね」 「………」 「その間、客は誰ひとり文句も言わずに、じっと並んでいますよ。ですから、むしろ国歌独唱中はいちばん売店の列が混むんです。なぜなら、一分以上ものあいだ、客をひとりもさばけませんから。私自身、同じ球場で同じタイミングで体験してはじめて知ったことなんです」  顔色を失っている軽部に向かって、ひろみは言った。 「ですから不可能なんです、軽部さん。どうやったって不可能なんです。マウンドで女性歌手が国歌を歌い上げているとき、二分少々でコーラを買って戻ることはできないんです。六分ほどかかった、あのおじいさんのほうが通常の所要時間なんです」 「……でも」  硬直する恋人の顔を見つめながら、永峯希美がおずおずとつぶやいた。 「ツトムは間違いなくコーラを買ってきました」 「それは正確な表現とは言えないかもしれません」  ひろみが訂正した。 「軽部さんは、コーラを買ってきたのではなく、もらってきたんでしょうね」 「もらって……きた?」 「ふたりの人間からです。だからコーラ二杯分を持って席に戻ってきた」 「ふたりの人間って?」 「理奈さんを狙撃《そげき》した赤毛の少年と、その黒幕とみなされながら、けっきょく身元がまだ判明していない黒いTシャツの中年男——そう考えてみたら?」  ひろみの言葉に、希美はそんな独断が当たっているはずもないと首を振り、横にいた軽部を見た。ところが、軽部は頬《ほお》をケイレンさせていた。それで希美の顔からすべての表情が消えた。  ひろみは、自分の推論が当たっていたことを喜ぶのではなく、悲しみながらつづけた。 「軽部さんがプレイボール直前に席を外したのは、飲み物を買うためではなく、最後の打ち合わせが必要だったからです。事前に中年男と決めておいた狙撃プランを、実行役の少年に最終確認させるためです。ただし、少年に直接顔を見せるようなことはしなかったかもしれませんね。もし顔を合わせていれば、日本人の介在を取り調べでしゃべられてしまうから」  軽部の唇《くちびる》が言い訳を求めて動こうとしたが、言葉は出てこなかった。 「軽部さんの意を受けて殺人願望の少年を人選したその男は、もちろんお金で動いたんだと思います。かなりの金額のお金で。仲介者はお金で動き、その仲介者から武器を渡された少年は、憧《あこが》れの人殺しを四万数千人の大舞台で——いえ、テレビを通じて自分のやったことが全米に報道される歓《よろこ》びで動いた。病みきった構造の委託殺人の最終確認を終えた軽部さんは、とりあえずは理奈さんに頼まれたコーラを求めて売店へ行こうとした。それを知った黒いTシャツの男は、いま売店のほうは混雑しているぞ、と、自分が買っておいた二杯のコーラを軽部さんに差しだしたんです。まだこれは一口も飲んでいないから、と。彼らは彼らで、実行直前の興奮のために、飲み物など喉《のど》を通らない心境だったのかもしれません」  烏丸ひろみは、まるでその場に居合わせたように、合理的な推論から詳細なシミュレーションを組み立てていった。 「その二杯のコーラは、口はつけていなかったかもしれないけれど、買ってから時間をおいたものだったから、気が抜けはじめていて、そんなに冷たくなかった。親しくもない他人から飲み物を譲られる危険というものは、そのときの軽部さんには思い浮かばなかったでしょう。これから起きる出来事のことで頭がいっぱいだったから。そして、男のすすめるままに、二杯のコーラを譲り受けたんです」 「ひろみさん」  何度も唾《つば》を呑《の》み込んでから、希美が言った。 「私、そんなこと信じたくない」 「私だってそうです、希美さん。でも、そうしたいきさつがなければ、軽部さんが短時間でコーラを手にして席に戻ってくることはできなかったんです。アメリカ合衆国国歌が流れているときには」 「ちがうよね、ツトム」  泣き出しそうな顔で、希美が恋人に向き直った。 「ひろみさんの話って、ぜんぶはずれてるよね。めちゃくちゃだよね」  しかし、軽部は答えない。汗が一筋、こめかみから垂れ落ちている。外は白一色の雪景色、部屋の中もさほど暖房は強くないというのに。 「ねえ、ツトム!」  希美は叫んだ。 「そう言ってよ! ひろみさんの推理なんてぜんぶはずれてるって言ってよ!」  叫びながら、希美は軽部の身体を強く揺すった。  ガクガクと首を前後に激しく揺すられながら、軽部は無抵抗のまま何も答えなかった。希美は途中で手を離し、泣き出した。 「あなたが……あなたが人を雇って私を殺そうとしたの?」  泣きじゃくりながら、希美は軽部を問いつめた。 「野木さんじゃなくて、あなたが仕掛けた殺人だったの? あなたが私を殺すつもりだったの?」 「そうではないと思います、希美さん」  無言を貫く軽部の代わりに、ひろみが答えた。 「あれは捜査当局が出した結論のような、人違い殺人ではなかったんです。最初からターゲットは大貫理奈さんだった。少年は指示されたとおりの標的を撃ったんです」 [#改ページ]    9 恋の裏側 「はじめから……理奈を……狙《ねら》っていた?」  まさかという顔で、永峯希美は烏丸ひろみに問い返した。 「ツトムが、理奈を?」 「そうだと仮定しなければ、事態はうまく説明できません」 「なぜ」 「理奈さんが、軽部さんを愛していたからです」 「うそ……」  こぼれる涙が唇《くちびる》まで伝ってきたのを拭《ぬぐ》おうともしないで、希美はひろみを見つめた。ひろみを見たいからそうしたのではなく、もう恐ろしくて恋人の反応が見ていられなくなった。それでひろみに目を向けるしかなくなっていた。 「希美さん、女が男を愛するとき、相手の男がほかの女の人を愛していないかという心配はするけれど、その彼を別の女性も片想いで愛しているという状況にはあまり注意を払いませんよね。でしょ? 自分の愛が勝っていれば少しも心配はない、というふうに」  ひろみは、自分より少しだけ年上の希美に向かって、説教じみないように言葉を選びながら話をつづけた。 「あなたは軽部さんを心から愛していましたよね。だから気になっていたのは、軽部さんがほかの女性に目移りしないかどうか、そこだけだったのでは? そして軽部さんもあなたのことを心から愛していて、ほかの女性には目もくれないと確認できたとき、すっかり安心してしまい、レーダー探知機をはずしてしまったんです」 「レーダー探知機?」 「そうです。彼を狙っているほかの女性の心を探知する感覚のアンテナを」 「………」 「結婚という形だけでなく、その前段階の恋愛という形もそうですけれど、愛し合っているふたりは、おたがいのことしか見えなくなっている。私があなたを大好きで、あなたも私を大好きで、どちらもほかの異性など眼中にない。でも、それだけ相手に魅力を感じるならば、その相手を自分と同じぐらいに『死ぬほど好きだ』と感じている人物がいるかもしれない。……とすれば、自分が勝者で、思いを成し遂げられない人物が敗者という構図が、自動的にそこでできあがっているかもしれないんです。相思相愛のカップルって、その陰に隠れた負け組の悲しみを忘れて浮かれるところがあるでしょう?」  希美も軽部も、実際、それぞれが魅力的な男女であることは間違いない、と語りながらひろみは思っていた。 「恋って、当事者以外にものすごく残酷な刃《やいば》を向けることがある。あなたたちのケースでも、そういう状況が発生していたんです。けれども、希美さんはそれに少しも気づかなかった。ところが、軽部さんのほうは深刻な事態が陰で進行していることに気づいていた……というよりも、気づかされていた。だから今回の悲劇が起きたんです」  そこでひろみは、軽部に問いかけた。 「軽部さん、あなたは希美さんを心から愛していました。いまもそうですよね。そして、希美さんの自分に対する愛情も心から信じていましたから、野木博之という希美さんの昔の恋人が書いたモデル小説を見せられても、そのことだけでカッとなって即座にシアトルまで乗り込むというような、そんなゆとりのない心境ではなかったはずなんです。問題は野木さんではなく、同じ会社の大貫理奈さんの存在だった。そうですよね?」  ひろみが問いかけると、軽部は反射的に窓のほうへ目をそらせた。 「もっとちゃんと説明して」  鼻をすすりながら、希美が感情的な口調で割り込んだ。 「じゃなきゃ、私、わかんない」 「希美さん」  ひろみは、こんどは希美に向き直った。 「あなたが軽部さんを好きなのと同じぐらい、理奈さんも軽部さんのことを好きだったんですよ」 「ウソ! そんなのウソ!」 「どうしてウソと言い切れるんですか」 「だって」 「理奈さんの心を覗いてみたことがあるんですか」 「………」 「彼女は彼女で、人生をともに歩むのは、軽部勉さんしかいないと思っていた。絶対にほかの女性には渡したくなかった。たぶん、そんなふうに理奈さんが思い込んでも仕方ないような関係があったんでしょう。だから、軽部さんが希美さんと結ばれることは、絶対に許せなかった」  希美はひろみの推理を全否定するように、髪の毛を左右に飛ばしながら激しく首を振った。だが、やがてその動作を途中で止めて、ゆっくりと首をうなだれていった。 「軽部さんが希美さんのもとへ走ってしまった状況を、どうしても受け容れられなかったとき、理奈さんは、なにかのきっかけで希美さんのかつての恋人の存在を知ったんです。勝手な推測をさせてもらうなら、執念であなたの過去を追いかけたのかもしれません。希美さんの大学時代の友人まで情報網を広げれば、野木博之という名前に行き当たるのは自然なことでしょう。そして理奈さんは、軽部さんをあなたから奪い返すために、その作戦の道具として、野木博之さんを利用することにしたんです。それは、野木博之という人物に『シアトルの魔神』と自らを呼ぶストーカーを演じさせることでした。いつまでも希美さんのことを忘れない、ロマンに満ちたストーカー役を」  びっくりして、希美はまた顔を上げた。 「それじゃ、あの小説は理奈が仕組んだものだと」 「そうでなければ話がうまく進みすぎると思いませんか? あなたのいた会社ほど有名な化粧品メーカーが、そのPR誌の連載小説に、突然売り込みにきた無名の新人をあっさり載せると思いますか。よほど担当者が、必死の口説き方をしなければそんな企画は通らなかったでしょう。いくら野木さんが若い女性に人気の出そうなハンサムな男性であってもね」 「………」 「すべては、理奈さんに猛烈な執念があったからこそ実現できた連載企画なんです。仕事としてではなく、プライベートな怨《うら》みつらみのエネルギーが実現させた復讐《ふくしゆう》計画だったんです」 「では、もしかして」  消え入りそうな声で、希美は言った。 「あの小説は野木さんが書いたのではなく、理奈が書いた……」 「私はそう思っています」  きっぱりとひろみは言い切った。 「自分から野木さんに接触し、野木さんにことこまかに事情を聞いて書き上げた、大貫理奈・作の小説——それが『レイク・クレセントの風』です。ほとんど事実に即して書かれたあの短編で、ただひとつ、現実とは大きく異なる部分がありましたよね。希美さんが病気で死んでしまうところです。野木さんが球場であなたに渡したメッセージには、それは再会の約束を破棄する象徴だったというような説明があったと思いますが、事実はそんなきれいごとではなかったでしょう。あれは、あなたを抹殺してしまいたいという理奈さんの願望なんです。それが、作中に希美の病死という形で現れた」  ひろみの指摘に、希美は猛烈な恐怖を感じて全身の毛穴を粟立《あわだ》てた。  知らぬ間にホテルの部屋に入り込み、バスルームにこもっていた理奈のことを思いだした。自分の下着にじっと視線を注いでいた理奈の表情を思い出した。  ひろみの推測どおりの、いやそれ以上の煮えたぎる感情が、あのときの理奈にあったのではないか。もしかすると理奈は、ひろみを本気で殺すために軽部から部屋のカードを借りたのではないのか。  すでにこの世にいない死者の、強烈な憎悪のエネルギーを感じて、希美は腹の奥底から湧《わ》き上がってくる恐怖の絶叫を抑えるのに必死だった。 「PR誌の編集担当という立場を利用して、あの小説を希美さんと軽部さんの目にふれさせることに成功した理奈さんは……」  烏丸ひろみの冷静な声に、希美はなんとか意識を立て直した。 「その小説が現実世界に引き起こす反応を、何通りか想定していたでしょう。第一のケースは、軽部さんが激怒して、希美さんとの仲が険悪になってしまう展開。第二のケースは、希美さんが野木さんの執着心に怯《おび》え、自分から軽部さんとの結婚をあきらめる展開。そして第三のケースは、希美さんが昔の恋を思いだして、軽部さんから野木さんへ積極的に乗り換える展開——そのいずれかが実現すれば、まだまだ自分が軽部さんと結ばれる逆転のチャンスがある。理奈さんはそうした期待のもとに『レイク・クレセントの風』という小説を仕上げたんです。それだけではありません、球場で希美さんに渡されたメッセージも、文面は理奈さんが指示したのではないでしょうか。野木さんは、それを言われるままに清書して……」 「ありえません!」  ひろみの言葉の途中で、希美が叫んだ。 「野木さんは、お芝居でそんなことをする人じゃありません。まだ、本心からああいうメッセージを残したというほうが信じられます。理奈なんかに利用されて、私をだます芝居をしていたなんて、それはありえない。だって……だって……八年前のあの想い出を、そんなひどい形で彼が壊すはずがありません」 「でも、たとえば野木さんがお金でひどく困っていたら?」 「お金?」 「シアトルに渡って事業を興したけれど、ほんとうはうまくいっていなくて大きな借金を抱えていたとしたらどうかしら。そういう弱みを理奈さんにぜんぶつかまれていたら、彼女の言うなりになった可能性もあるでしょう」 「まさか」 「理奈さんは、宣伝部に行く前は経理にいましたよね」  ひろみは、希美から聞かされていた理奈のプロフィールを確認した。 「あなたのいた会社では、経理に配属された女性は、通常は退社までずっと経理でいるそうですね。ところが理奈さんは、五年目に突然宣伝部へ移された。それは彼女のクリエイティブな才能を買われたというよりも、経理に置いておいたらまずい部分があったからだとは考えられないかしら。ストレートな言い方をすれば、お金の扱いに信頼が置けない。あるいは、公にはできない使い込みが、すでに確認されていたのかもしれません。けれども会社は世間的なイメージダウンを恐れて、人事異動という形で理奈さんを経理の現場から離すことで事を処理しようとした」 「………」 「理奈さんの、そうしたお金に汚い性格の罠《わな》に、野木さんがうまくのせられてしまった可能性を、あなたは否定できますか? シアトルでの大成功を夢見ながら惨敗した野木さんならば、借金の追及を逃れるために過去の恋を利用することも仕方のない選択だったかもしれない。そして彼は『シアトルの魔神』という変人の役柄を引き受けることを承諾したんです。とってもクールな言い方を許してもらえるならば、自分のプロポーズを受け容れなかった希美さんのことなど、八年後の野木さんにとっては、大事に守ってあげる存在ではなかったかもしれません」  ひろみの言葉に、希美はめまいを感じて身体を大きく揺らした。 「一方で軽部さんも、理奈さんの罠にはまっていた。会社のお金を流用した理奈さんから、その一部が軽部さんに流れていたとか、そういう弱みが軽部さんにもあった。だから、強気一辺倒で理奈さんを切ることができなかった」  ひろみの言葉に、軽部は雪の色をにじませる窓ガラスに目を転じた。歯ぎしりをしそうな口もとの歪《ゆが》め方をしていた。 「希美さんとの結婚が具体化していけばいくほど理奈さんの問題で追いつめられたあなたは、突然登場した野木さんの問題にかこつけて、人違い殺人に見せかけて理奈さんを抹殺するプランを思いついたんです。『レイク・クレセントの風』が、理奈さんの仕掛けた罠だったことに軽部さんが気づいたかどうか、それは私にもわかりません。けれども結果として、軽部さんは理奈さんの作戦をうまく利用した殺人計画を大特急で練り上げた。いましかチャンスはないと思って、ちょうど理奈さんが必死にPR誌の連載を決めたように、軽部さんは必死になってシアトルの旅をプランニングしたんです。野木さんの小説に激怒したふりをし、対決のため希美さんといっしょにシアトルへ乗り込むと宣言し、その連絡役として理奈さんも同行させることに成功した」  烏丸ひろみは、容疑者を一気に追い込むために、論理的に組み立てた推測を、微塵の揺らぎもない自信を持ってまくし立てた。 「うまいぐあいに、ストーカー役を割り振られた野木さんには、希美さんを殺す動機がじゅうぶんにありました。だから、野木さんとの再会場所で狙撃《そげき》事件が起き、希美さんの隣にいた、よく似た格好の理奈さんが殺されれば、それは標的ミスであって、じつは希美さんが狙《ねら》われていたと誰もが信じることになる。そのミスリードを狙って、軽部さんはうまく理由をこじつけ、ふたりに同じマリナーズの野球帽をかぶらせ、希美さんと似たサングラスを理奈さんにもかけさせました。  夜の七時、八時でも昼のような明るさを保つ夏のシアトルは、『ナイトゲーム』を観るのにサングラスをしていても、少しも不自然ではないことも好都合でした。再会の舞台は、安全を考えて人の多い場所という希美さんの希望で、大リーグの試合が行なわれるセーフコ球場となったけれど、かえってそのほうが大自然の中にあるレイク・クレセント・ロッジなどよりも作戦が運びやすかった。そしてあなたは、殺人願望の少年を間接的に利用するという狡猾《こうかつ》な手段を、共犯に選んだ男とともに組み立てたんです。  アメリカに場所を移せば、日本では暴力団の世界でしかありえない拳銃《けんじゆう》による委託殺人という手段が現実味を帯びてくる。軽部さんは英語がじょうずだから、なおさらそういうプランは実行可能となってきました。いえ、実現が可能かどうかという冷静な判断をしていられないぐらい追いつめられていたんでしょう。金銭的な弱みをタテに、絶対に私と結婚してと攻め込んでくる理奈さんに対して、残された対策はこれしかなかったんです。委託殺人の失敗による人違い狙撃、と見せかけた殺人しか」  ひろみの推理を聞きながら、永峯希美はぼんやりと考えていた。少年に撃たれ、大量の血を流しながらセーフコ球場のスタンドの床に倒れたとき、理奈はいったい何を思ったのだろうか、と。  あまりにも唐突にやってきた自らの死が、まさか必死に愛した軽部勉によって計画されたものだとは夢にも思わなかっただろう。それよりも理奈は、猛烈な屈辱を感じながら意識を失っていったはずである。絶対にこの女だけには負けたくないという、永峯希美の足元に……まさにその足元にひれ伏す格好で死んでいくのだから。  理奈は、その直前まで勝利の快感に酔っていたに違いない。学生時代の恋人が異常性格者のストーカーと変貌《へんぼう》したショックで茫然《ぼうぜん》自失となっている希美を横目に見ながら、まるでただの観光客のように、グラウンドで行なわれているシアトル・マリナーズとアナハイム・エンゼルスの試合をビデオに撮りつづけていた。スコアボードの得点をアップにしたり、盛り上がる観客たちの姿を追いかけていく楽しそうなアングルは、とても先輩社員の身に起きた出来事に同情している後輩の態度ではなかった。そのビデオは、おそらく勝利の記録として永久保存版となる予定だったのだ。よもやそれが、自らの死の瞬間を記録した衝撃の犯罪映像として、FBIの資料庫で永久保存版とされる運命になろうとは夢にも思わずに。  さらに希美は、マンションの自室で首を吊《つ》って死んだ野木博之の、その直前の心境にも思いを馳《は》せた。  たしかに烏丸ひろみの言うように、八年後の野木には、もはやレイク・クレセントのロマンなど残っていなかったかもしれない。しかし、金に転んで乗った計画で、その首謀者である大貫理奈が希美の前で殺されてしまうという展開に、事件の真相を探ろうと思うよりも先に、ひどいパニックを起こしてしまったのだろう。  ただし、そのことだけで野木が首を吊ったとは思えなかった。おそらく、セーフコ球場の惨劇は、野木にとっては死を選択するひとつのきっかけにすぎなかったに違いない。たぶん彼はそれ以前に、金銭問題かほかの理由で、自殺という選択肢をつねに頭に思い描かざるを得ない状況にあったのだろう。アメリカという国は、成功したときの輝きも大きいが、失敗したときの代償も大きかったはずである。その失敗によって精神的なバランスを崩していなければ、野木が理奈の計画に乗ったわけがない。  そして最後に野木は、ショッキングな事の展開に動揺して命を絶った。そのことで自分が殺人計画の首謀者という汚名を着せられるなど、計算できるゆとりもなかったのだろう。 (もしも私があのとき——)  寒さに曇った窓ガラス越しに、永峯希美はレイク・クレセントの青い湖水を思い出していた。 (もしもあのとき、ヒロのプロポーズにはっきりとノーを言っていれば) (『レイク・クレセントの風』という短編小説は成立せず、二人の命は失われなかったし、私もまたこんな不幸には突き落とされなかっただろう。そしてツトムも……)  希美は、自分のあいまいな態度が招いた責任を痛感した。 「セーフコ球場の悲劇は、すべて軽部さんの計算どおりに進行しました」  希美は、遠くのほうに烏丸ひろみの声を聞いていた。 「世間的には大変な悲劇であり、仕掛け人である軽部さんにとっても、肝心の希美さんとの結婚の機会を失う危険性も背負うことになった。それでも、大貫理奈さんの脅迫から解放されたことで、あなたは精神的にものすごく救われたんでしょう。そして、時間をかければまた希美さんとの間も元に戻すことができると、そう信じていたに違いありません。きょう偶然に希美さんと東京で出会えたとき、あなたはその思いをいっそう強くしたことでしょう。……でも、軽部さん」  ひろみは言った。 「星条旗が、あなたの不正を見逃してはくれなかったんです」 「もういいよ」  そこで突然、軽部が声を出した。 「もういい」 「もういいって……どういうこと」  問い返したのは、ひろみではなく、希美だった。 「ねえ、ツトム、もういいって、どういうこと」  軽部はそれには答えず、ソファから立ち上がると、窓辺に近寄って窓ガラスの曇りを手で拭《ぬぐ》った。そしてつぶやいた。 「雪、やんじゃってるな」  その瞳《ひとみ》は、物理的には都心に降り積もった真っ白な雪を見ていたが、心象風景では別の雪を見ていた。  彼は知っていた。冬場のレイク・クレセントは周囲を深い雪に覆われて、ロッジも営業を停止し、誰ひとり近寄る環境ではなくなることを。  森の間からひっそりと現れる鹿や、巨大な樹木の上でゆったりと弧を描く鳥たち以外に、そこで何が起きようと、目撃する者は誰もいないことを—— [#改ページ]  一枚の写真㈮  セーフコ球場とレイク・クレセント・ロッジ[#「セーフコ球場とレイク・クレセント・ロッジ」はゴシック体]  本作の舞台となったシアトル・マリナーズのセーフコ球場には、選手と同じぐらいに有名で人気のあるハンバーガー売りのおじさんがいる。日本人ファンお目当ての佐々木が登板しなくても、この人の素晴らしいコントロールを見るだけでも球場に足を運ぶ価値はあるだろう。とにかくすごいのだ。遥《はる》か遠くの客が声を上げてハンバーガーをくれと叫ぶと、そこまで届けにいくのではなく、立っている場所からいきなり客めがけて投げる。しかもその投げ方が、客のほうはまったく見ずに、自分の背中側からスナップを利かせて飛ばす背面投げなのだ。これが百発百中、客の手元へ届くから驚き。それはもうマジックを見せられているようである。  では、遠くでハンバーガーを受け取った客はどうやって金を払うのか。一ドル札を、隣の客から隣の客へとリレーしておじさんのところへ届けてもらうのだ。なにしろこのおじさんがバーガー背面投げをはじめると、みんなが注目するのだから、代金が途中で誰かに盗《と》られてしまうという心配などない。さすが大リーグの本場は、こういうところまでスケールが違っている。  なお、本作に「マリナーズのイチロー」が出てこないのは、事件の設定がイチローの移籍前の西暦二〇〇〇年だからである。 (画像省略)  さて、このセーフコ球場のあるシアトルは、坂道の街だ。坂道といえばサンフランシスコが有名だが、シアトルの坂もなかなかに急坂で、運転していると恐いと感じるくらいのところもある。そして、地図を広げていただくとわかるのだが、入江や運河がじつに複雑に入り組んだ地形にあって、それは三陸海岸などの比ではない。  本作品に出てくるレイク・クレセントがあるオリンピック国立公園へ、シアトルから実際に行ってみようと思われる方は、運転に問題がなければレンタカーのドライブが楽しい。楽しいと同時に便利である。  私はアメリカの取材では、基本的に自分でレンタカーを運転する。一般ドライバーの交通マナーは日本よりも遥かに礼儀正しいし、道路管理や万一のときの保険システムや事故処理対策がきちんとしているので、右折したとたんにうっかり対向車線を走ってしまうような大ボケをしないかぎり、安全なドライブをするのに難しくはない。それにオリンピック国立公園のように広大な自然の中へ入っていくには、自分の都合で動ける足がないと、不便であることはなはだしい。  シアトル市内から車で二時間半ほどで着くオリンピック国立公園は、本文中でもちょっと触れたが、世界的にも非常に珍しい温帯雨林があることで知られ、世界遺産にも登録されている。温帯雨林とは何かというと、アメリカ大陸西海岸に沿って流れる寒流で運ばれてきた冷たく湿った空気が、シアトル西方の半島中央にある標高二四二八メートルのオリンパス山に当たって大量の降雨をもたらし、温帯であるにもかかわらず、鬱蒼たるジャングルが育てられている、というものである。ジャングルといっても、熱帯地方のそれとはちょっとニュアンスが違って、巨大なる樹木の枝から、とろろ昆布のような(いきなり和風なたとえですが)シダ類などがカーテンのごとく垂れ下がり、ちょっとしたホラーテイストの光景を醸し出しているのである。  ワンナイトミステリー第四弾の『「倫敦《ロンドン》の霧笛」殺人事件』では、同じアメリカのヨセミテ国立公園を舞台のひとつに取り入れたが、オリンピック国立公園でも、やはり公園入口のゲートで環境維持費として十ドルの入園料を取られる。ただし、このチケットは一週間有効で、何度でも出入りできるシステムになっている。  やがて右手に大きな湖、レイク・クレセントが見えてくるのだが、前々頁に掲げた写真のレイク・クレセント・ロッジには、客室にテレビも電話もない。IT大国のアメリカにあって、携帯電話を持参しておかないと、メールも打てないし好きなホームページも見られないホテルというのも奇跡のような存在である。回線を引けないのではなく、経営者の哲学として、日常的な情報から宿泊客を遮断させているのだ。たしかに不便ではある。だが、夜中に鹿の親子連れなどが部屋の前までやってくるのに出会うと、こういう場所でネット文明を忘れてくつろぐのも悪くないと、そう思う。 角川文庫『「シアトルの魔神」殺人事件』平成13年4月25日 初 版 発 行